「ゆるストイック」を読んだ

「ゆるストイック」を読んだ

2025/08/06
「ゆるストイック」を読んだ。本屋さんでいまの売れ筋としてよく紹介されていたが、紹介されすぎて逆に手に取らず敬遠していた。何かの書籍かブログで言及されていて興味を持ち購入。読んでみるととても面白い。ここ数年で自分が読書したり文章を書いたりしながら考えていたことが言語化されて一冊にまとまっているという感覚で、パラレルワールドの自分が書いたのかと錯覚するほどであった。 まず表題の「ゆるストイック」は「競争にとらわれすぎず、かといって怠惰でもないスタイル」を指す造語。Z世代よろしく最近の若者は競わない。それは他と比べて上にいくことの無意味さを感じているからだが、この競わない性質は「頑張らなくていい」とはまた意味合いが違う。彼らも本当は頑張りたいし、何かに打ち込みたい。ならば競争ではなく没頭を目指そう。自分のやるべきことを明確にしつつ、そのスタイルを周囲には押し付けない、それがゆるストイック式。 自分がエネルギーを注ぐ領域はどう見つければいいか?それは自分の得意なことから探す。自分ではなんとも思ってないことで周りからすごいと褒められた経験を思い返してみよう。他人にとっては大変だけど自分にとっては余裕なことがあれば、それは特技といえる。得意領域を見つけたらそこで継続して頑張ってみる。続けるのが辛いと思わないだけで、そこでは実績を積み上げやすくなる。

「疲労社会」を読んだ

「疲労社会」を読んだ

2025/08/03
「疲労社会」を読んだ。スキルや成果を競い合う現代社会、私たちは疲れている。最近はさらにAIが登場し、日々の生産性をさらに高めることを求められる。その疲れの根本はどこにあるか?それは意外にも現代で良いとされる「主体性」「自由」にある。 規律を定めてそこからはみ出すものを罰する社会から、いまは自律性を重んじて高め合う社会になっている。他人に怒られて気を病むのではない。できない自分を自分自身が追い詰めてしまう。そしてそれは自由を与えられ、他者や過去の自分と競い続ける構造に捉われている。 他人から与えられた仕事なら、それを上手くこなせば褒められて一定の満足が得られる。自分で追い求める仕事は、成果が出たら次はもっと上手くやろうとさらに上を求める。この欲求には際限がない。その結果無限に自分からエネルギーを搾取することとなり、疲れ果ててバーンアウトしてしまう。人は活動的になればなるほど、それだけいっそう自由であるというのは、ひとつの幻想であろう。いろんな場所に行っていろんな人と会う。活動的なことは基本良いものとされているが、受けたインプットをそのまますべて表現してしまうとエネルギーが消耗されすぎてしまう。自分のフィルターを通して選別する。良い刺激は受け入れ悪い刺激は無視する。自分の中のブレーキを育てることが本当の自由に繋がっていく。マルチタスクは、後期近代の労働社会および情報社会に生きる人間だけに可能な能力ではない。むしろそれは退化である。

歩くのに飽きた人が踊り出す

歩くのに飽きた人が踊り出す

2025/07/30
「疲労社会」を読んでいる。競争主義、生産性主義の現代は肉体よりむしろメンタルが疲れやすい。「できる」ことを求められ続けるのはしんどい。どのようにそこから逃れられるか? 興味深い一節があった。ある道があり、そこを目的地に向かって歩いている。駆け出したり走ったりしてもそれは違いにはならない。なぜなら直線を行くスピードが変わっているだけだから。道中をウロウロしたり、その場で踊ったりすることは違いになる。それは本来不要な行動で、目的地に向かうこととは別軸の動作を生み出しているから。 道草を楽しみ、踊るように趣味や仕事をしてる人を人生で何人か見てきた。そういう人たちはゴールすることではなく、自身のスキルの上達でもなく、ただその時間を楽しんでいるように見えた。他の人と比べて自分がどうだと考えることもなく、その人のペースで楽しんでいた。

「ケアしケアされ、生きていく」を読んだ

「ケアしケアされ、生きていく」を読んだ

2025/07/27
「ケアしケアされ、生きていく」を読んだ。「能力主義をケアでほぐす」の竹端さんが、能力主義〜の前に書いた本。ここ数年は生産性主義から離れたい気持ちが強く、特に最近は何も生み出さない時間との向き合い方を深めたいと思っている。能力主義〜はまさにそういう本だったので出会えて感動。補強する意味を込めて前作を読んでみようと購入して読んでみた。 線を引いたところをいくつか紹介。具体的な他者が必要なんだろうな、と思うのです。それは、問題をズバズバと解決してくれる、アドバイスをしてくれる、「カリスマ」や「スーパーマン」ではありません。 (中略)

「急に具合が悪くなる」を読んだ

「急に具合が悪くなる」を読んだ

2025/07/06
「急に具合が悪くなる」を読んだ。哲学者の宮野さんはがんの転移を経験し、いつ具合が悪くなってもおかしくない状態になる。その時の心情や様子、考えを人類学者の磯野さんと往復書簡の形でやり取りする。これがめちゃめちゃ面白く、一気に読み終えてしまった。 テーマの重さとは裏腹に、前半は意外と読みやすい。これは二人の文章のきれいさ、俯瞰してみる力、喩えやユーモアを入れていくセンスによるもの。「具合が悪くなるかもしれない」と診断された時にそのリスクをどう受け止めればいいのか?健康だと思ってる人も明日突然病気になるリスクはある。ではその閾値はどこにあるのか。こんな感じで考えたことのない命題を突きつけられる。 そんな感じで興味深く読んでいると、後半に入ってさらに深いところへと入っていく。それは宮野さんの体調が悪くなっていくこと、磯野さんの熱い言葉が出始めること。「患者」と「ケアする人」の関係で固定すれば楽かもしれないが、そうではなく共に真理を追求する仲間であろうとする覚悟を感じる。関係が曖昧になるのは怖いこと。質問を踏み込みすぎて傷つけてしまうかもしれないし、ぶつかることもあるかもしれない。それでもお互いを信頼して「ぶっちゃけどうなの」を聞いていく姿勢がこの往復書簡をさらに素晴らしいものにしている。

「踊りつかれて」を読んだ

「踊りつかれて」を読んだ

2025/07/05
塩田武士さんの「踊りつかれて」を読んだ。塩田さんの著書は「罪と声」「存在のすべてを」に次いで三冊目。どれも共通してキャッチーな掴み、登場人物の綺麗な心情描写などが好きで楽しく読んでいる。今作のテーマは「SNSの誹謗中傷」で、多くの人にいま読んで欲しい本。SNSでの暴論や確証のない拡散が人を傷つける。その根底には画面の向こう側に人がいるという想像力のなさがあると思うが、この本を読むとその解像度が少しはあがると思う。 好感度の高い芸能人のスキャンダルが報じられ、それにより失墜していく話は現代ではよく見かける。有名人の失敗を世間は許すことができない。自分のことは棚に上げて石を投げる姿は作中では「安全圏のスナイパー」と表現されているが、みんながツッコミで人の粗探しをしているから窮屈になる。物語自体も面白いが、誹謗中傷の被害者・加害者が精緻に描かれている点が面白い。不倫が報道されると「奥さんが可哀想」というコメントで溢れるが、奥さん当人はどう思っているのか?本人のことは本人しか分からない。人の気持ちを勝手に推測して攻撃するのは間違っている。 恋愛とはまた違う、もっと深いところの愛も作品のテーマとなっている。公私を超えてお互いを信頼する。連絡を取っていなくても気になり、相手もきっとそうだと思う感覚。少し綺麗に描かれすぎな感もあるが、人間のつながりについて素直な心を取り戻せる。作中では芸能として音楽とお笑いが登場する。クリエイティブな関係性には安心感に加えほんの少しの緊張感が必要になる。「この人に誇れる自分でいたい」その想いは素敵だが、本当に弱ったときに助けを求める足枷にもなる。Webサービスを作る仕事をしていて近しいものを感じたが、自分は辛い時は緊張感をすべて捨ててただの友人になりたいと思っている。

事実は小説より奇なり

事実は小説より奇なり

2025/07/04
「ショーハショーテン」という漫画がある。お笑いや漫才についての漫画で、同級生二人が高校生のためのM-1のような大会の優勝を目指して頑張る青春ストーリー。バクマンのお笑い版というと分かりやすいかもしれない。登場するコンビがみな魅力的で感動するし、漫才やコントのシーンは本当に面白い。お笑い好きの人には是非読んでみて欲しい漫画だ。 さて、「事実は小説より奇なり」はショーハショーテンの中で出てきたキーワードだ。主人公は漫才のネタが考えるなかで、ウケるネタとウケないネタの違いが分からず困惑する。そんなとき小説家の妹に相談し、打開のヒントとなるのがこの言葉だ。妹いわく、「事実は小説より奇なり」という言葉は間違っている。小説がフィクションであることはみんな分かっている。そこで無茶な設定や台詞を使ってしまうと読者は冷めて離れてしまう。つまりフィクションである小説だからこそ、「事実」と思わせる描写にすることが大事になる。それを聞いた主人公は自分たちの過去のネタを振り返り、本当に自分たちが言いそうなことを話しているネタがよくウケていることに気づく。 確かに良い小説や演技に触れたとき、最初に思うのは「本当にあった話みたい」「本当にこういう人みたい」というリアルと演技の境界が曖昧な感想かもしれない。自分の知らないところで本当にそういう場面があり、たまたま自分はそれを覗き見ているような感覚。こういう時に自分な良いものを観たなと思う。

日記を314日連続で書いている

日記を314日連続で書いている

2025/07/03
日記を314日連続で書いている。これが315日目。その日思いついたことを書いてるので正確には日記では無いし、生活リズムが乱れまくって朝5時に前日分を書いたりもしているが、毎日続けられているという点で自分を褒めたい。坂口恭平さんの「継続するコツ」を読んでスタートし、1年続けることを目標にやってきたがそれもあと2ヵ月を切っている。大きく体調を崩すことなく続けれていることがうれしい。 今のインターネットでは文章を書く場所はいろいろあるが、どれも何かを発信しないといけない雰囲気がある。はてなブログやnote、技術記事ならZenn。書き心地は良いけどバズったり全然読まれなかったり、自分の書いたコンテンツが「評価」されてしまうのが少し気持ち悪い。好きなことを書いて置いておく場所が必要。「しずかなインターネット」がそのコンセプトピッタリなので自分でブログを作るのが大変という方にはおすすめしたい。私はエンジニアでデザインを考えたりするのも好きなので自分で作っている。 自分のポータル的な場所が欲しいというのもある。noteやZennに記事を書いたり、アプリやWebサービスを公開しているがそれをまとめる場所がない。ポートフォリオサイトみたいなのを作るには重すぎるし、Bentoのようなリンク集でもいいけど一言添えたかったりする。このブログに「About」みたいなページを作ってそこに足していくのがちょうど良く感じる。そこからの流入を期待するわけではなく、自己紹介がURL渡して完結したら便利だなというくらいの感想。

「大量廃棄社会」を読んだ

「大量廃棄社会」を読んだ

2025/06/29
「大量廃棄社会」を読んだ。副題は「アパレルとコンビニの不都合な真実」で、新品の服やまだ食べられる食品が捨てられる実態をレポートした一冊。作られる服のうち4枚に1枚は新品のまま捨てられる。その実態を知ることなく私たちは気軽に服を買ったり捨てたりしている。 まだ着られる、どころか新品の服が捨てられるなんておかしい。これは誰が作った構造なのか?消費者はラインナップに欠品があるとクレームを言う。企業はそれに応えるために売り切れないほど大量に服を作る。大量に作るにはコストがかかる。だから途上国の安い労働力に頼る。途上国は成長産業を作るという国策としてそれを引き受け、無茶な環境でスタッフを働かせ、やがて事故につながる。悪者がどこかにいるというより、資本主義的な効率を突き詰めて今の仕組みが形作られていったように感じる。そしてその実態を知らずに、気軽に服を捨てたり買ったりしている自分がいる。 食品も同じように廃棄されている。本書によると日本人ひとりが1日お椀1杯分のごはんを捨てているらしい。例えば恵方巻きは元々は関西地域の家庭的な伝統だったのをコンビニが全国に広げ、「節分には恵方巻き」というイメージを作り上げることに成功した。毎年節分の日には多数の恵方巻きが作られ、捨てられる。本来は必要な売れる分だけ作ればよい。そうならないのはやはり資本主義的発想で、たくさん作ることで儲かる仕組みが根底にある(コンビニ会計というらしい)。

「仕事が麻雀で麻雀が仕事」を読んだ

「仕事が麻雀で麻雀が仕事」を読んだ

2025/06/22
「仕事が麻雀で麻雀が仕事」を読んだ。麻雀好きで知られるサイバーエージェント社長の藤田さんによる著書で、近代麻雀での連載をまとめたものらしい。最近時間を使っている趣味といえば麻雀で、仕事終わりや夜に時間を見つけては打っている。しかし6月に入って頭を仕事モードにも切り替えなければいけない。麻雀と仕事をいい感じにバイパスしてくれる本はないかと探してこの本に行き着いた。 藤田さんの著作は昔から好きでほとんど読んでいる。就活で東京に行く夜行バスの中で「渋谷ではたらく社長の告白」を読み、それが面白くて読書しはじめたほど。賢い言葉でマウントを取る論調ではなく、素直な言葉で考えが述べられていてどれも面白い。 この本もそれは同じだが、一編が短くちょいちょい麻雀の話が出てくるのでやや読み進めづらい(近代麻雀の連載なので当たり前だけど)。藤田さんの言葉は元々わかりやすいので麻雀で喩える必要性も低い。ただ自分もよく見ているAbemaの麻雀チャンネルがニコ生に影響されて生まれたなど、随所に挟まれる雑学は面白い。