「ケアしケアされ、生きていく」を読んだ

2025/07/27

ケアしケアされ、生きていく」を読んだ。「能力主義をケアでほぐす」の竹端さんが、能力主義〜の前に書いた本。ここ数年は生産性主義から離れたい気持ちが強く、特に最近は何も生み出さない時間との向き合い方を深めたいと思っている。能力主義〜はまさにそういう本だったので出会えて感動。補強する意味を込めて前作を読んでみようと購入して読んでみた。

線を引いたところをいくつか紹介。

具体的な他者が必要なんだろうな、と思うのです。それは、問題をズバズバと解決してくれる、アドバイスをしてくれる、「カリスマ」や「スーパーマン」ではありません。

(中略)

そうではなくて、あなたの言葉にならない想いやしんどさ、苦しいことを、そのものとして表現しても否定されない。そのうえで、じっくりとただ聞いてくれて、できそうなら共に考えようとしてくれる。そんな存在が必要なのではないか、と。

ドラマのヒーロー、あるいはYouTubeに流れてくる切り抜き動画は「これが正しい」と言い切る。それは強い姿勢だが、実際に自分が悩んでいるときは強者には相談しにくい。相談したい相手とは自分の言葉に一生懸命耳を傾けてくれて、一緒に考えて悩んでくれる人。明瞭なアンサーがなくてもその時間一緒に考えてもらえるだけで心は軽くなる。そして子供の頃から「周りに迷惑をかけてはいけない」と教えられる私たちにとってそういう人を作るのは難しい。

テレビを見ている子どもに注意をしたいなら、まずは「話したいことがあるのだけれど、テレビを消してくれない?」と尋ねることから、はじめる必要があります。真剣な表情でそう伝えた上で、テレビを消してもらい、相手にわかるように、こちらが注意したい内容を伝えることです。

ケアは一方向に上から指示するのではなく双方向に行われる。対等な立場で一緒に考えること。一方で危険な行動などは教える必要があるので、社会人でいうところのティーチング・コーチングの違いがケアにも求められる。

この自己責任論って、突き詰めていえば、「自分でできる人は何をしてもいいけど、自分でできない人は何もするな」という排除の論理だからです。

(中略)

「できる一つの方法論」を考え合えばよいのに、「できない100の理由」をまくし立て、最初から拒否する。それを受け入れる。

電車の乗降に介助がいる障害者が無人駅で降りようとしたところJRの駅員に止められて問題になった、というニュースを受けてのコメント。自己責任は平等に見えて、その人の背景や特徴を考慮していない点で実は不平等な側面もある。健康な期間は良いとして年をとって足腰が弱くなったとき、遠出を諦める、あるいは社会が協力してサポートしてくれる、どちらの世界が良いか?各々に事情はあって反射的にNOを言いたくなることも多いが、一度立ち止まってうまい抜け道がないかみんなで考える時間を取っても良い。