「疲労社会」を読んだ

2025/08/03

疲労社会」を読んだ。スキルや成果を競い合う現代社会、私たちは疲れている。最近はさらにAIが登場し、日々の生産性をさらに高めることを求められる。その疲れの根本はどこにあるか?それは意外にも現代で良いとされる「主体性」「自由」にある。

規律を定めてそこからはみ出すものを罰する社会から、いまは自律性を重んじて高め合う社会になっている。他人に怒られて気を病むのではない。できない自分を自分自身が追い詰めてしまう。そしてそれは自由を与えられ、他者や過去の自分と競い続ける構造に捉われている。

他人から与えられた仕事なら、それを上手くこなせば褒められて一定の満足が得られる。自分で追い求める仕事は、成果が出たら次はもっと上手くやろうとさらに上を求める。この欲求には際限がない。その結果無限に自分からエネルギーを搾取することとなり、疲れ果ててバーンアウトしてしまう。

人は活動的になればなるほど、それだけいっそう自由であるというのは、ひとつの幻想であろう。

いろんな場所に行っていろんな人と会う。活動的なことは基本良いものとされているが、受けたインプットをそのまますべて表現してしまうとエネルギーが消耗されすぎてしまう。自分のフィルターを通して選別する。良い刺激は受け入れ悪い刺激は無視する。自分の中のブレーキを育てることが本当の自由に繋がっていく。

マルチタスクは、後期近代の労働社会および情報社会に生きる人間だけに可能な能力ではない。むしろそれは退化である。
マルチタスクは野生動物にも広く見られる。注意に関する技術は、野生を生き抜くためにも必要不可欠なものである。

「マルチタスクをこなす方法」などと生産性向上を謳う記事がたまに出るが、人間の脳はシングルスレッドで複数のことを切り替えながらやると必ずパフォーマンスは落ちる。マルチタスクにこなす力は現代のスキルのように言われるが、野生をサバイブするためにそもそも必要で古来よりあるスキル。むしろひとつのことに没頭する能力の方が人間が文明ともに手に入れた能力なのかもしれない。