やっぱりカフェの雑音があると集中できる

2025/07/31

自宅で集中が切れたらカフェに行って作業している。以前は家でやると集中が深くなりすぎて疲れてしまうのでカフェで緩めている感覚だったが、最近はちょっと意味合いが変わってきた。それはプログラミングの待ち時間が増えてきたことに由来する。今はAIと一緒にコードを書くのが当たり前になっていて、一度チャットしたら3-5分、長い場合には20分くらい待機する時間が生まれる。この時間は特に人間はやることはないが、たまに危険な処理(ファイル削除とか)をするときはAIから質問が来るので完全放置もできない。席は外せないがそこまでやることがないという微妙な状況になる。

この微妙な待ち時間、本を読んだり動画を見るには短すぎる。かといってXをチェックしたりと時間を潰すには長すぎる。それに作業はAIがやってくれるようになったが、その分人間はちゃんとした指示を出さないといけなくなっている。これまでは自分で実装しながら考えられてたのが、最初にしっかりした内容を考えてAIに渡すような変化。最初のしっかり考える部分では頭を捻る必要があり、他のことを並行でやっているとマルチタスク状態になりあまりうまく回らない。

色々試したが、「カフェで周りの雑音を聞きながらノートに次にやることをまとめる」というのが一番しっくり来ている。AIの作業が終わると人間がレビューし、問題なければその変更を取り込んで次の指示をする。次々にやるべきことを考えておく必要があるので、その準備の時間にすると無駄がない。ただ、これだけだと次の場面、次の場面と頭を走らせすぎてしんどい。なので周囲の会話や雑音をBGMにしてゆったりしたペースでやる。今のところこれが一番長く続けられる。

人の話ならラジオやPodcastでも良いかと思ったが、話をちゃんと聞いてしまうと頭を使ってしまうのでやや不向き。できるだけ頭は空けて、他の五感を使って時間を繋いでいきたい。エンジニアの中で昔ハンドスピナーが流行ったがあれは良いかもしれない。あとは筋トレやストレッチも良さそうだが一日に何度もは難しい。

AI開発の状況が変わる可能性もある。例えば20分よりもっと長い時間、一度指示したら2時間くらい実行してくれるとかは今でも十分ありえる。ただこれは序盤でミスると意味のないコードを書き続けることになってしまうので使う場面が限定される。あとはAIが質問してくるところが音声になってパソコンの前にいなくても返事できるようになるとかはありそう。家事や散歩中でもやり取りする。とりあえずスマホに通知が来て返事するとかになったら幾分かはマシかもしれない。

人間同士のコミュニケーションが電話やメール、チャットと広がっていったように、AIと人とのインタフェースも今後増えていく。便利になることを望むが、四六時中AIからの連絡を気にしないといけないのもまたしんどい。AIの進化が人間を楽にするのか疲れさせるのかは、今後注目していきたいポイントのひとつ。


歩くのに飽きた人が踊り出す

2025/07/30

疲労社会」を読んでいる。競争主義、生産性主義の現代は肉体よりむしろメンタルが疲れやすい。「できる」ことを求められ続けるのはしんどい。どのようにそこから逃れられるか?

興味深い一節があった。ある道があり、そこを目的地に向かって歩いている。駆け出したり走ったりしてもそれは違いにはならない。なぜなら直線を行くスピードが変わっているだけだから。道中をウロウロしたり、その場で踊ったりすることは違いになる。それは本来不要な行動で、目的地に向かうこととは別軸の動作を生み出しているから。

道草を楽しみ、踊るように趣味や仕事をしてる人を人生で何人か見てきた。そういう人たちはゴールすることではなく、自身のスキルの上達でもなく、ただその時間を楽しんでいるように見えた。他の人と比べて自分がどうだと考えることもなく、その人のペースで楽しんでいた。

道のうえで踊り出す前に何が起きてるか?それは「歩くのに飽きる」ことだと著者は言う。歩く・走るはもう飽きた。だから違う楽しみを見出そうとする。そこに小難しい考えはない。プログラマーの三大美徳は「怠惰」「短気」「傲慢」と言われる。同じ仕事を毎日やるのはつまらない、だから自動化する。この仕事をしていても楽しくない、だからAIにやってもらう。そういう考え方が良いとされる。自分の仕事を振り返ってみるとモバイルアプリ、機械学習、プロダクトマネージャー、AIエンジニアとその都度興味があることをやってきた。でも本当は飽きていたのかもしれない。大体のことは3年くらいやると飽きる。それは悪いことではなく、違う遊びを見つけるのが好きなのかもしれない。


ChatGPTに国会の仕事を教えてもらった

2025/07/29

最近はCursorやClaude Codeなどプログラミング特化のAIサービスを使うことが増え、ChatGPTとは疎遠気味になっていたが久しぶりにガッツリ使った。話したテーマは「国会の仕事」で、国会ではどう意思決定され、法律はどのようにできるのか、通常国会と臨時国会の違いは何かなどを網羅的に教えてもらった。

参院選で与党が過半数割れし、法案を進めるには野党の協力が必要な状況になった。例えば国民民主党はガソリンの暫定税率を年内に廃止したいと言っているが、この年内というのはどういう基準なのか?そういう基本的な知識が足りてないと感じていて、ふとChatGPTに色々質問をぶつけたらかなり良かった。

「この芸能人は誰?」など、質問が明確であればインターネットは即座に答えを出せる。一方で自分の知らない分野を学ぶときはネットよりも書籍が良い。体系的にまとめまっていて、最初から最後まで通して読むとひととおりの下地が作られる。以前政治に興味を持った時、その時は図書館に行って本で学ぼうとした。しかし政治コーナーの本は多岐に渡り、初心者の自分がどれを読んだら良いか判断がつかない。入門っぽいものを2-3冊選んだが複雑すぎてついていけず、結局その日は目当ての知識を掘り当てられず帰宅することとなった。

その時から6年が経ち、今の時代にはAIがある。自分の気になることを列挙し、「個別の質問もそうだけど国会の全体像を知りたい。体系的にまとめて教えてほしい」とチャットするだけで専門家がわかりやすい言葉で教えてくれる。その専門知識はインターネットや書籍からつくられたものなので、実際は図書館の本を自分の気になるトピックでナナメ読みするのに近しい。こういう体験はいままでなかった。

AIが相手だと気を遣わなくて良いという意見もある。正直あまりピンと来てなかったが、今回ChatGPTと何往復かしてみてその感覚が分かった。「この単語ってどういう意味ですか?」と初心者すぎる質問をしたり、相手が答えてる最中に自分の意図と違うなと思ったら「そうじゃなくて」と気軽に遮れる。人間同士のやり取りだとどうしてもマナーや見栄など感情が入り込んでくる。AIはすぐ忘れるのでどれだけアホでもいい。むしろアホを見せた方が自分のレベルに合わせた言葉選びをしてくれてフィットする。自分にとって未開拓の分野を学ぶことは、今の時代とても簡単になってるのかもしれない。


最近の生活

2025/07/28

朝7時頃に起きて朝食を食べ、9時頃の仕事開始まではゆっくり過ごす。以前は近所を散歩してたが暑すぎて今はやめている。7時代ならそこまでかなとは思いつつ、セミが一生懸命鳴く声を聞くと外に出る気が起きない。朝はテレビをつけるようになった。「おは朝」という関西で人気の番組。世の中で起きていることをなんとなく知るにはやっぱりテレビは強い。でも阪神タイガースの特集の時間が長すぎる気もする。朝食はパン派だが最近は卵を焼くようになった。ゆで卵やスクランブルエッグなどその日の気まぐれで調理して食べている。

仕事はひとりでやるものが多く、日中はほとんどミーティングがない。AI活用支援的なことをやってるが、世の中的にも今はまだAIの正解の使い方はなく模索している段階。手を動かして学ぶ、いろいろ作ってみる。良いものは残りイマイチなものは消えていくがそれでいい。この初期の頃に良い・悪いの感覚を掴んでおくことが大事だと思っている。学んだことは社内の勉強会で話したりブログに書いてまとめたりする。こうして積み上げていけば前にしか進まない。丁寧に一歩ずつ詳しくなるのが面白い。

夕方頃に退勤して料理。最近は買い物のときは安い食材を大量にまとめ買いしており、冷蔵庫に残ってる食材をクラシルに入れてレシピを探す。前日と味付けが被らないように選んで作る。翌日の昼のために量は多めに作る。作っている間は耳が空いているのでPodcastを聴いたり、最近はAbemaTVで麻雀対局を見ている。ひとつの対局でも2時間弱くらいあるので次の動画を探す必要がなくて良い。そして解説を聞いているだけで上手くなっている気がする。

夜ご飯食べた後は個人開発か読書や麻雀をしている。というか最近は9割くらい麻雀をしている。会社の麻雀大会が近いのでそこに向けて勉強中。半年前の自分より判断が良くなっている実感があり、成績的にも段位があがってきた。こういう伸びをダイレクトに感じれるときはやっぱり面白い。個人で作っているWebサービスの改善もやる。AIに指示をしたら勝手に機能を作ってくれる体制が整いつつあるので、指示だけ送って自分は麻雀をしている。未来の働き方のような、マルチタスクを強いられているような・・。最近はスマホがなかった時代を思い出す。小学生の頃、休みの日は朝起きて何してたっけ。多分兄とゲームをしたり、何度も読んだ漫画を寝転びながら再読したりしていた。そうやって過ごして「時間がもったいない」という感覚になったことはない。何かのゴールがあるから時間効率を考える。ただその時間を楽しむ度合いを高めたい。

風呂に入り、日記を書いて1時前にはベッドへ。寝る前はパソコンを見ずに本を読みたいと思ってるが最近はこれという小説を見つけられていない。寝室に置いてるサーキュレーターがカタカタ音が鳴るようになってしまった。角度や置き場所を工夫して音が鳴らないよう工夫しようとするが、無理な場合が多く5分くらい格闘したら諦めて寝ている。昔から寝付きは良いので横になるとすぐ睡眠に入り、翌朝また活動。こんな感じで1日を過ごしている。


「ケアしケアされ、生きていく」を読んだ

2025/07/27

ケアしケアされ、生きていく」を読んだ。「能力主義をケアでほぐす」の竹端さんが、能力主義〜の前に書いた本。ここ数年は生産性主義から離れたい気持ちが強く、特に最近は何も生み出さない時間との向き合い方を深めたいと思っている。能力主義〜はまさにそういう本だったので出会えて感動。補強する意味を込めて前作を読んでみようと購入して読んでみた。

線を引いたところをいくつか紹介。

具体的な他者が必要なんだろうな、と思うのです。それは、問題をズバズバと解決してくれる、アドバイスをしてくれる、「カリスマ」や「スーパーマン」ではありません。

(中略)

そうではなくて、あなたの言葉にならない想いやしんどさ、苦しいことを、そのものとして表現しても否定されない。そのうえで、じっくりとただ聞いてくれて、できそうなら共に考えようとしてくれる。そんな存在が必要なのではないか、と。

ドラマのヒーロー、あるいはYouTubeに流れてくる切り抜き動画は「これが正しい」と言い切る。それは強い姿勢だが、実際に自分が悩んでいるときは強者には相談しにくい。相談したい相手とは自分の言葉に一生懸命耳を傾けてくれて、一緒に考えて悩んでくれる人。明瞭なアンサーがなくてもその時間一緒に考えてもらえるだけで心は軽くなる。そして子供の頃から「周りに迷惑をかけてはいけない」と教えられる私たちにとってそういう人を作るのは難しい。

テレビを見ている子どもに注意をしたいなら、まずは「話したいことがあるのだけれど、テレビを消してくれない?」と尋ねることから、はじめる必要があります。真剣な表情でそう伝えた上で、テレビを消してもらい、相手にわかるように、こちらが注意したい内容を伝えることです。

ケアは一方向に上から指示するのではなく双方向に行われる。対等な立場で一緒に考えること。一方で危険な行動などは教える必要があるので、社会人でいうところのティーチング・コーチングの違いがケアにも求められる。

この自己責任論って、突き詰めていえば、「自分でできる人は何をしてもいいけど、自分でできない人は何もするな」という排除の論理だからです。

(中略)

「できる一つの方法論」を考え合えばよいのに、「できない100の理由」をまくし立て、最初から拒否する。それを受け入れる。

電車の乗降に介助がいる障害者が無人駅で降りようとしたところJRの駅員に止められて問題になった、というニュースを受けてのコメント。自己責任は平等に見えて、その人の背景や特徴を考慮していない点で実は不平等な側面もある。健康な期間は良いとして年をとって足腰が弱くなったとき、遠出を諦める、あるいは社会が協力してサポートしてくれる、どちらの世界が良いか?各々に事情はあって反射的にNOを言いたくなることも多いが、一度立ち止まってうまい抜け道がないかみんなで考える時間を取っても良い。