大事なことにメモリを使う
メモリはとはコンピュータの部品のひとつで、データを一時的に記憶しておく役割を持つ。例えば10+5を計算するとき、10と5、それから加算するということを一時的に保持しないといけない。これはコンピュータの中ではかなり重要な仕事になる。
メモリはよく「作業机の広さ」と例えられる。狭い机の上では紙を1枚くらいしか広げられない。机のサイズが大きくなると横に辞書を置いたり、参考となる資料を並べたり、途中まで書いたけど後回しにした別の紙を端に置いておいたりできる。メモリ容量が大きくなると仕事が効率化し、やりたいことが早く進むようになる。
人間の思考もこのメモリに近しいところがある。体調や友人関係などの悩みがあるとき、その悩みが頭の中の5割くらいを占有してしまう。残りのスペースで仕事も一応できるが効率は出ない。やるべきことを明確にし、そこに没頭して集中できると自分でも驚くほどのパワーが出る。ひとつのことに集中できると人間は強い。
この人間の持つメモリを阻害する要因は本当にたくさんある。例えば休日にカフェに出て本を読んでいる。楽しく読んでいたが、途中でふと「家の鍵閉めたかな?」と不安になる。一度思うと逃れられない。この後は70%ほどの出力で本を読むことになる。人間関係も大きい。家族や友人との諍い、上司から評価されない、部下に尊敬されてないなどの思いはノイズになる。「人からこう見られたい」自意識も邪魔になる。作業机の上を綺麗に保つのはなかなか難しい。
周りでいろんな事象が起きるのは仕方ない。改善の余地があるのはその事象の受け止め方だ。例えば日記を書いたりマインドフルネスの時間を取ったりして阻害する要因に自覚的になる。考えた結果自分ではどうしようもないなと思えたら気が楽になるし、一過性だから我慢しておけば良いかと思っても気が楽になる。何度も何度も出てくる要素は自分の壁。それは本気で向き合い早めに対処する。こうしてメモリを広く保つ努力をすれば、少しずつ自分たちの持つ100%の力を出しやすくなってくる。
初期衝動
AIにプログラミングしてもらう体験が面白すぎる。一年、いや半年くらい経つと慣れてこの感覚を忘れてしまいそうなのでメモしておく。
AIコーディングは大きく「伴走型」と「委譲型」に分けられる。伴走型は人間がパソコンの前に座り、AIに指示を出し、成果物をレビューしながら少しずつ前に進む方法。委譲型はもっと大胆で、最初に仕事の内容を丸ごと伝え、人間のいない間にそれを実装しておいてもらうもの。これまでとの違いが大きいのは後者。お風呂に入る前にやってほしいことを箇条書きで書き出し、それを伝える。自分は風呂に入りドライヤーで髪を乾かす。パソコンの前に戻ってくると「実装が完了しました!」のようなメッセージが表示されている。「あ、そういえば依頼してたな」と思い出してちゃんとできてるか確認する。ほとんど思い通りに動いていて感動。まさに自分の分身が得られたような感覚になる。
複雑なタスクの場合は失敗することもある。そんな時でもAIは「できました!」と言っている。これは仕事の達成条件が明示されていないのが原因。「最後にこういう確認コマンドを実行して、それがPassしたら完了です」と次からは伝えてあげる。するとAIは最後に確認コマンドを叩き、それがエラーになったらエラーメッセージを見て修正し、修正がうまくいったら完了としてくれる。まさに「自律型」エージェントといえる。
委譲型で任せられるタスクは限られる。一番任せやすいのは画面系の機能開発。一通り触って問題なければ大体OKだし、見た目に関するコードはよく書き換えるのでサービスの根幹になりにくい。その機能が使われなければ廃止することもある。丁寧に作るよりもスピードが重要な部分で、これはAIにフィットしやすい。
逆にデータベースとかログイン周りの処理とか、サービスの根幹に関わる部分は任せにくい。データベースを適当に変更されると影響範囲が大きすぎるし、ログインや認証の実装をミスるとセキュリティ的な事故に繋がりかねない。こういった部分は伴走型で、人間立ち合いのもと進める必要がある。
AIは世の中のコードから学習してるが、その学習コードにわざと悪意あるコードを混ぜ、AIに罠をしかける動きが警戒されてるらしい。そうなると今後はAIに触らせる範囲はもっと限定的になってくるかもしれない。新しい技術の可能性を、悪意ある一部の人間が狭めてしまう。インターネット初期から変わらないサイクルだが実に虚しい。
世の中への解像度があがる瞬間は面白い
縁あって某FMラジオ局の方とお話しする機会をいただいた。大学の頃からお笑いラジオが好きで今でもずっと聴いており、ここ数年はPodcast番組を友人とやっていたりもする。趣味が高じてAIがラジオを作るWebサービスを作ったりもしたが、その業界の人と話すのは今回が初めて。1時間ちょっとの短い時間ではあったが業界の状況や課題感など濃い話を聞けた。こうやって知らない世界を知る(≒知った気になる)のはいつでも面白い。
振り返れば大学生のときの就職活動で、それまで聞いたことのない会社が重要な仕事をしているのを知ってワクワクした。当時は業種や業界というカテゴリ分けがピンと来ておらず、外資系企業がどういう特徴かなどは知らず、調べながら少しずつ整理できるのが面白かった。
社会人になりたての頃、異業種交流会的な場に参加したこともあるが、それはしっくり来なかった。ただ色んな業界の人と話せれば良いわけではなく、自分の関心を満たせるかが自分にとって大事だったように思う。今まで曖昧だった線引きがクリアになったり、知らない仕事の解像度があがったときにテンションがあがる。色んな人と薄い内容を少しずつ話す場所ではその興味は満たされない。
ここ数年だと英語、水泳、日記が新しい趣味として定着した。好奇心のままに行動できて幸せに思っていたが、英語や水泳など「昨日の自分より上達している」ことを嬉しく思うのは生産性主義的な発想だと最近読んだ本にあった。確かに自分はプログラミングが上達しているかとか、過去に比べて今どうなったかというのをよく振り返る。これは他人との比較ではなく過去の自分と比較する発想だが、その本によるとそれもまた生産性主義に捉われているらしい。子供の時間の過ごし方を見ると「ただその時間と向き合っている」。過去と比べて上下することもないし未来を怖れることもない。ただその瞬間を生きる姿勢を取り戻せれば楽に生きれる、というのは感覚的には理解できる。
イマに生きるという意味では冒頭のラジオ局はただその空間にいるだけで楽しかった。収録ブースを横目に打ち合わせしたが、機材やパーソナリティの方の様子を見れて眼福。これが何に繋がるというわけでもないが、ただ良い時間を過ごせたというので満たされた時間だった。
先の方まで予定が決まってると嫌になる
昔からカレンダーの先の方まで予定が入っていると嫌になる。久しぶりに友人に会うとか、その予定自体は楽しみなものでもなんだか億劫になる。予定をしっかり詰めるよりも当日ふらっと誘い合わせるくらいがちょうどよい。しかし年齢があがって家庭や子供をもつ友人が多くなり、突発的な飲み会などはまったくなくなった。そして予定を入れることも少なくなった。そもそも会わない。半年に一回くらい会うと話すことが色々あってめちゃ楽しい。予定の絶対数が減っているの普段も気持ちも軽く過ごせている。
8月に技術イベントで発表することになり、久しぶりに昔の感覚が蘇った。その日までに資料の準備や発表練習などをしないといけない。スライドを作るのは苦手ではないしむしろ楽しい。発表も楽しい。それなのに億劫な気持ちが常にある。でも学生時代のテスト勉強のように、期限があることで速度感を出す効果もあると思う。いつも締切に追われてるとしんどいけどたまになら良い。そのイベントが終わったら開放感に満ち、なんでも好きにできる気分になる。制約があるから自由を感じられる。常に自由ならそれはルールなしの無法地帯である。
美術館に行くとか、一人で行く予定には億劫さは感じない。そう考えると嫌なのは予定を忘れてはいけないストレスとか、日程が近づいてきたら風邪引いちゃいけないとか、そういう予定にまつわる諸注意をケアするのが苦手なのかもしれない。友人なので連絡すればいいけど、体調が微妙なときに頑張っていくかとかを考えるのは面倒くさい。でもこのあたりも大人になってきて、体調が万全じゃないから家で会うとか、そういう柔軟さが少しずつ身についてきている。この辺りは一度仕事を休職していた期間が活きている。病気になって良いことはないが、唯一良いのは同じ境遇の人の気持ちをわかる糸口になること。無理する必要はまったくない。わがままを言い合うのも、友人関係においては大事なこと。
情報じゃなく経験をアウトプットする
検索すれば情報が手に入り、AIで好きな形に変形できる世の中で何を書くか。情報を書くのは自分でも他人でも変わらない。そうではなく実際に手を動かして経験し、学んだことをアウトプットする。触ってみて何を感じたか?経験は常にユニークになる。
実際は情報にも価値がある場合もある。それはいち早く日本語でまとめて出したとか、その分野に詳しい人が大事なポイントをまとめてるとか、そういう場合には読み手にとって有用になる。しかしそれは大抵スピード勝負になるため忙しい。経験であれば世間から出遅れていてもいい。少し遅れたタイミングで触って思ったこと、という経験として十分意味がある。
同じ技術でも人によって感じ方、活用方法はまるで違い。ある人にとって救いとなる技術が、ある人には自分の仕事が奪われる脅威となるかもしれない。その自分の感じ方をただシェアする。いろんな人がアウトプットしているものを総合することで多角的に物事を捉えることができる。
インターネットの好きな点のひとつが共有のハードルがとても低いこと。デマの拡散など負の側面もあるが、それは自身の体験ではなく伝聞した情報をアウトプットして問題になっている場合が多い。自分の体験を話すことは常に一次情報。そういう体験記がこれからさらに重要になってくると思う。