リモートワークで友達はできるのか
友人に教えてもらったPodcast「考えすぎフラグメンツ」で話されていた内容に、「リモートワークで友達はできるのか?」というものがある。自宅にいるまま働け、世界中の好きな相手と瞬時にオンラインで繋げるリモートワークは便利で効率的だが、効率が良すぎて雑談が生まれない。会議後にちょっと声をかけて喋ったり、仕事終わりにたまたま帰り道が一緒になった同僚と飲みに行ったり、そういうオフで話すタイミングがない中で友達になれるのか、という話。
リモートワークで5年ほど働いた自分の感覚を表現すると、「友達はできるけど作りにくい」になる。まず、普通に仕事だけをしていたら出来ない。普段は自分の作業に集中し、必要なタイミングでだけ話す。仕事で普通に必要なことはそれだけだが、これでは余白というか、相手のパーソナリティを知る時間が足りなすぎる。例えば3人でミーティングする予定だったのが、1人が遅れて15分くらい2人だけで話す時間ができることはないだろうか?そういう時に適当に喋ってる雑談が信頼関係の芽になる。たまたま出身地が同じだったり、好きなアーティストが共通していたりして盛り上がる。そうなってはじめて別の時間で今度雑談を、と進むことができる。
若い頃はコミュニティが同じ人と友達になり、年齢を経てからは趣味を通じて友達になる。高校や大学では同じ学校に通っているというだけで近しい存在になれた。社会人になりたての時の同期もそう。その後は同じ会社で働く限りはコミュニティの変化はなく、転職したとしてもスキルベースで採用されることが多いので即戦力扱いされて関係性を築きにくい。地域や子育ての友達はできるので、年齢による変化というよりは、コミュニティに入退会する機会が減ってるということかもしれない。
趣味の友達はコミュニティとは違い、居住地や職場は関係なく作れる。アーティスト、ゲーム、お笑い、読書、スポーツ、写真、プログラミング。趣味が同じだといきなり話が弾む。会った時に話すことがある。新作が出たりして話しかけるタイミングもある。こういう関係にはじまり、「今度会った時ご飯でもどうですか?」とどちらかが話しかけると友達になる。
効率の高い働き方は基本的に良いが、気をつけないと徐々に窮屈になる。雑談の機会を設計したり、リアルで集まる機会を作るなどして余白を作る。信頼関係ができているほうが組織としては強い(相手の気分を害すのを恐れず気になった点を話せるから)。みんな友達になろうとはまったく思わないが、安心して意見をいえる工夫は現代には必要だ。
言語化により失われるものもある
本屋に並ぶタイトルはトレンドを反映しているが、最近は「言語化」がひとつのキーワードになっている。最近といっても感覚的には数年前。ひろゆきのディベート動画がバズったり、曖昧な概念を上手く言葉にできる人が賞賛される。しかしその兆候が強くなりすぎて逆をいきたくなってきた。
プロダクトマネージャーをやっていた頃、主な仕事は「つなぐ」ことで、経営チームやエンジニア、デザイナーの橋渡し的なことをよくやっていた。曖昧な要件では開発作業が滞り、認識齟齬が生まれると手戻りが発生してロスになる。目的や懸念事項を言語化することには意味があったと思う。しかし同時に、考えや内容を箇条書きにしてまとめるとき、自分の中のニュアンスが剥がれている感覚もあった。できるだけ誤解がないように背景を手厚く書いたとしても、伝わるのはせいぜい70%くらいな気がする。たとえばユーザーインタビューでその課題が話されたときの表情はシェアできない。経営チームで何度も議題になって、やるかやらないか迷った上でのGoとなったことは書ききれない。社風としてはオープンな会社だと思うが、そもそもすべての感覚を伝え切るのは難しい。
昔戦略についての本を読んだ時、「戦略とは初見の人が聞いて分かるようなものではない。同じ課題で悩み抜き、なんとか結論を出そうと同じ深さまで潜ったことのある人にのみ伝わる」というような一文があった。言葉にされれれば表面上は分かった気になれる。それについて議論もできる。しかし奥深くの芯の部分では共鳴できない。
いま個人で作っているサービスは友人と2人で作っている。その友人は10年ほど一緒に仕事をしており、いろんな問題の解決策や意思決定を相談しながら進めてきた。こうやって時間を重ねていると「なんとなく良い」が共有できる。過去の出来事や他のサービスで例えたり、「心地よい」というような抽象的表現でも伝わる。そしてこういうガチガチでない余白があった方が良いサービスが作れる気がしている。
言語化のスキルはある程度までは必要。それ以降は自分を信じてやれるかとか、どれだけ良いものを見てきたかとか、そういう抽象の部分こそが違いになってくるのかもしれない。
最初のアハ体験を設計する
何かしていて「これだ!」と思うタイミングをアハ体験と呼ぶ。勉強していて知識が繋がったと感じる瞬間、アイデア出しをしていて方向性が見えた瞬間。Webサービスを使う際にもこの瞬間があり、自分のサービスではそれがどのタイミングなのか開発者は理解しておかなければいけない。
Notionであれば書き心地の良さに気づいた瞬間かもしれない。Airbnbでは自分が旅行するエリアに素敵な宿がたくさんあると気づいた瞬間だろうか。どのタイミングで気持ちがアガるかはサービスの性質によって違う。それはユーザーが何を求めてそこに来ているかに依存する。
いろんなアプリやWebサービスが溢れる世の中、ユーザーはひとつひとつ吟味している時間はない。「家計簿 シンプル 無料」とかで適当に調べ、それなりに雰囲気が良いものをいくつか試してフィットするものが選ばれる。候補に選ばれたアプリには数分から数十分程度「これを使い続けるかどうか」の試験を受けることになる。そこで良いと思ってもらえれば生き残る。期待ハズレだと判断されればすぐに削除される。
アプリならアプリストア、Webサービスならホームページは自分のサービスの魅力を伝える場だ。頑張って作ったサービスだからできるだけ多くのことを伝えたいし、こんなにすごいんだよとアピールしたいのは人の性。しかし多すぎる文字は読まれず、本当に伝えたいコンセプトに絞って引き算するのが最適化となる。ユーザーは目に留まった2-3文を流し読み、自分の探してるものに合いそうだなと思ったらダウンロードする。作り込んだたくさんの機能は使っていくうちに伝われば良い。人間でも10を知ってるのに1しか喋らず、他人に聞かれたときに初めて奥深い内容を話す人が素敵に見える。自分の知識のすべてを一気に出してしまうと受け手が疲弊する。
サービスの特徴を伝えるとき、少しでも目を留めて欲しくて壮大なキャッチコピーを書いてしまいがちだ。ビジョンを示すためにある程度膨らますのは良いが、やりすぎると逆効果になってしまう。ユーザーは壮大なビジョンを見てワクワクしてサービスを訪れる。期待値が上がりきっているので、大抵の場合はそれを上回れずにガッカリして離脱する。
自分たちのサービスの「アハ」はいつなのか?それを最短でユーザーに感じてもらうにはどうすればよいのか?これを考えるには作っているサービスのコンセプト、ユーザーは何を求めてサービスを試すのかを解像度高く理解してなければならない。これらの理解に努めることはアハ体験の設計以外にも様々なボーナスをもたらす。
サービスのリリースとはなにか?
コツコツ作っていたWebサービスを公開する。リリースは世の中へのお披露目だ。昔はリリースがゴールのように考えられていた。今はリリースがスタートで、そこから持続してユーザーに価値を感じてもらわないといけない。ところで、リリースの定義とはなんだろうか?
企業が運営しているサービスなら分かりやすい。リリースとは情報解禁日で、そのサービスが利用可能になった日で、広告やXのポストなどあらゆる手段でのユーザー獲得が始まる日のことだ。最初にどれだけユーザーを囲えたかは「初速」と呼ばれ、出だしの好調さはひとつの成功指標になっているように思う(最初だけの場合も多いが)。SNSのような人がたくさんいて始めて意味のあるサービスはこの初速が重要だ。誰の反応もない過疎っているサービスに投稿しようと思う人はいない。一気に集めて人がいる感を演出し、サービスの価値を感じてもらわないといけない。
では個人が作るサービスではどうだろうか?個人開発のサービスでは広告を打つことはほとんどない。Xでポストしたりブログを書いたり、少ないユーザーが友達に紹介してくれたり、そういう小さな広がりでユーザー数が積み重なっていく。この場合リリース時のインパクトというのはほとんどない。
昔はよくiPhoneアプリを作っていたが、これにはリリースポイントが明確にあった。iPhoneアプリを世に公開するにはAppleの審査が必要で、それに通過して始めてリリースできる。つまりリリースとはAppStoreに公開されることだ。しかし最近主戦場としているWebサービスはもっと自由で、いつでも公開できるしいつでもアップデートできる。いま開発中のサービスもすでにインターネットからアクセスできる状態にある。でもこのサービスのことは誰も知らないだろう。
個人開発におけるリリースとは「広報活動を開始していく日」くらいの意味かもしれない。作ったものを広めるのは難しく、個人開発者は開発とマーケティングを50:50でしないといけないという話もある。潤沢な予算はもちろんないので地道に広めていく。ブログを書いたり知人に紹介したり、機能追加のたびに宣伝したり。100%で開発に向き合っていたのが終わり、知ってもらうための努力が始めるタイミング。それが今のところしっくり来る。
「AIすごいから人間いらなくなりますよ」と言うのをやめたい
AIの進化は著しい。変化の流れが速すぎてキャッチアップするだけでも一日が終わってしまう。しかもそれを会社に取り込めなければ近い将来競争力を失うとされている。しかしAIばかりやってるわけにはいかず、既存の事業の改善も続けないといけない。こういう隙間を埋めるべく、自分は今AI活用支援のような役割で仕事している。AIの新しい情報をキャッチアップして試し、重要なものに絞ってシェアしたり、チームが使いやすいように整えるお仕事だ。
「AIがすごい」は言っていかないといけない。AIは追いすぎてもしんどいがフル無視してたらどこかで破綻する。本当にすごいものは誰かがしつこく言って、チームが興味を持てるようにする。しかし「AIがすごい」は、少しズレると「もうエンジニア不要ですよ」といった扇状的な議論にすぐ取って変わられる。これは焦りだけを生み、AIをうまく使っていこうというマインドになりづらい悪手だと感じる。
遠い将来を考えたとき、一定の職種がAIに取って代わられるのは間違いない。しかしそれはどれくら先のことか分からないし、今もなお爆発的に成長しているAIの未来予測をしても意味がない。AIを語るときは時系列を揃える必要がある。半年後なのか、1年後なのか、3年後なのか。そこを擦り合わせておかないと「何をやっても結局最後はAIがやってくれる」となって現実の改善が進まない。将来の翻訳技術があれば英語を勉強する意味はないかもしれない。しかしそれが実現するのはいつなのか?見通しなしにAI任せにすると今を犠牲にすることになる。
「もう人間いらないですね」というフレーズ、自分もよく言ってしまう。しかしこれを言って盛り上がった試しがない。主語も見通しもデカすぎる発言には「そうですね」という曖昧な相槌しか返ってこない。それよりはAIによる変化を段階的に、時系列を刻みながら議論する姿勢を保ちたい。そしてAIがどれだけすごくなってもおそらく人間は必要だ。科学技術は人々の望む未来を実現するために磨かれてきた。人とAIの共生はこれまでの時代とはまるで違うかもしれないが、そこに人の存在が不可欠なことは変わらない。