日記を314日連続で書いている
日記を314日連続で書いている。これが315日目。その日思いついたことを書いてるので正確には日記では無いし、生活リズムが乱れまくって朝5時に前日分を書いたりもしているが、毎日続けられているという点で自分を褒めたい。坂口恭平さんの「継続するコツ」を読んでスタートし、1年続けることを目標にやってきたがそれもあと2ヵ月を切っている。大きく体調を崩すことなく続けれていることがうれしい。
今のインターネットでは文章を書く場所はいろいろあるが、どれも何かを発信しないといけない雰囲気がある。はてなブログやnote、技術記事ならZenn。書き心地は良いけどバズったり全然読まれなかったり、自分の書いたコンテンツが「評価」されてしまうのが少し気持ち悪い。好きなことを書いて置いておく場所が必要。「しずかなインターネット」がそのコンセプトピッタリなので自分でブログを作るのが大変という方にはおすすめしたい。私はエンジニアでデザインを考えたりするのも好きなので自分で作っている。
自分のポータル的な場所が欲しいというのもある。noteやZennに記事を書いたり、アプリやWebサービスを公開しているがそれをまとめる場所がない。ポートフォリオサイトみたいなのを作るには重すぎるし、Bentoのようなリンク集でもいいけど一言添えたかったりする。このブログに「About」みたいなページを作ってそこに足していくのがちょうど良く感じる。そこからの流入を期待するわけではなく、自己紹介がURL渡して完結したら便利だなというくらいの感想。
自作のコンテンツがあるのはAIの実験場としても地味に役立っている。例えばAIライティングといってAIに自分の文法に似せて文章を作ってもらう手法があるが、自分の書いたテキストがたくさんあるとどんなもんか試しやすい。自分が大事にしていることをよく書いてるので、1年分の日記をAIに渡したら自分の分身を作れそうな気もする。こういうのは書き始めた時には考えてなかった効果。とはいえAIが書いた文章をそのまま投稿することはなく、結局自分でほとんど書き直している。この日記には目的がない。目的がある文章はガイドしやすいが気ままな文章は書くことそれ自体に意味がある。AIが人間より100倍早く書けたとしても、人間が書く文章は生まれ続けると思われる。
6年ぶりの友人に会った
社会人1-2年目は東京でシェアハウスをしていた。意識高い系ではなく、関西から東京に出るのが少し心細い6人で部屋を借りて住むような形で。その友人の一人が大阪に来るという連絡を受け、合流して久しぶりのランチをしてきた。
お互いの近況や共通の知人の話題などで一通り盛り上がったあと、今後の人生をどう過ごしていきたいかという話になった。そういえばシェアハウスの頃もこんな話をよくしていた。昔の友人と会うとその当時の時間が蘇る。意味があるような無いような話を飽きるまでして解散。リモートワークで働いている期間も長くなり、こうやってリアルで会う友人は減りつつあるのでありがたい。友人は梅田の街の進化度合いに驚いていた。
元から関東近郊に住んでいた人と、地方から東京に移った人とでは感覚が違うなと思うことがよくある。日本において東京は中心で、人も店も一極集中の外れ値だ。自分は社会に出て東京に住み始めたが、人の賑わいやお店のラインナップ、新しいものへの感度などが地方とはまるで違う。東京で過ごしてると世界がめちゃくちゃ前進したような気がするが、その後実家に帰ってみると昔と同じくみんなでテレビを観ていたりしてギャップを感じる。そしてこの地方の生活の方が本来は多数派で、東京にいるとそれが分からなくなる。
昔一緒に働いていたイケイケのビジネスマンの方が、「田舎とかだと電車で寂しそうにナンプレしてるおばさんいるよね。そういう感じ」みたいな発言をしていた。それは自分の母親のことである。このシーンはとてもショックで今もたまに思い出す。電車で静かに好きなことをしていて他人にいわれる筋合いはない。これも東京が与えるステータス感のせいかなと思いつつ、自分はそういった揶揄はしないでおこうと心に決めている。
作っているのは薬かサプリか
ヤフーで働いていた頃に社内スタートアップ企画があり、何人かでチームを作ってアイデアを練り応募した。プレゼンが終わると投資家の方から色々アドバイスをもらうのだが、そこで言われたのが薬とサプリの違い。サプリは元々正常な状態にアドオンする「あったらよいもの」、薬は困っている何かを「治すもの」。サプリ的なWebサービスは流行らせるのが難しい。ユーザーが今すでに困っていて、お金を払ってでも解決したい問題を解決しましょう、という主旨の喩えだ。ケツに火がついている顧客を探せという意味で、バーニングニーズと呼ぶこともある。
例えばアプリの品質が遅くて困っている会社があるとする。その会社向けに自動でバグがないかチェックしてくれるツールを売る。品質の担当者からすれば喉から手が出るほど欲しいはずだ。そこで導入し、一定の成果が出ると次々と機能の要望を出す。それに応えてツールを磨いていくと強化される。ここでふと周りを見渡すと同じように品質に困ってる会社が他にもたくさんあることに気づく。同じ課題をたくさんの人が抱えているほど市場が大きくスケールしやすい。同じ課題感をもっている担当者同士はつながっていることが多いので、良いサービスはクチコミで少しずつ広がっていく。
「薬を作りましょう」というのは正しそうに見えるが、最近は少し景色が違ってきたようにも思う。いろんな便利なサービスが提供されたことで大きな課題はそれなりに解決されており、課題を探して見つかるのはとても小さなものになる(その会社特化のニッチな課題など)。IT市場が成熟しつつあるといえるのかもしれない。しかしそんな中で新たに流行るサービスもあり、そういうものはどれも「なんとなくカンジがいい」気がする。他ツールよりも使いやすいとか、ちょっとした特徴があって気に入られてるとか、社会的に良いストーリーがあるとか。課題解決は必要だが、それに加えて何かもう一つ特別なものが求められる。薬に加えてサプリの効果も合わせて必要になってるのかもしれない。
資本主義とマイペースの狭間で
年収上げレースにはだいぶ前に疲れて離脱し、自分のペースで生きたいと思うようになった。家族や少数の友人を大切にし、自分が意義を感じる仕事を毎日少しずつやる。他人との比較ではなく昨日の自分との比較。ゴールを幸せとするのではなく毎日の良い時間を幸せとする。こういう生活が目指すところ。
Webサービスを作るのは趣味であり仕事であり、もしかしたらどこかへ繋がるかもしれない手段でもある。自分の作ったもので多くの人が喜ぶとうれしい。そしてもしめちゃめちゃ上手くいったらどこかの会社から声がかかってバイアウトに繋がるかもしれない。自分の趣味と資本主義はこんな感じでつながっている。周りがどうとか関係なく好きなものを作っていたいけど、一方でどういうものが流行るかのマーケティング目線も自分にインストールされているのを日々感じる。
売れることが悪いことではない。中身がスカスカなものを大きく見せて売るのはダサいが、本当に便利なものがじわじわ広がって売れていくのは当然のこと。売ることが第一目的になるとAIに乗るとか、どうやったらバズるかを考え始めて気づけば便利から遠い位置で試行錯誤している。自分が作ったサービスの色んな使い方を無理やり考えるようになってしまい、袋小路に迷い込んでしまう。良いものを作れば売れるわけではないが、まずは良いものを作る。良いサービスはすべての基盤になる。そして良いサービスとは、実際に世の中にある課題を解決できるもの、そして自分が使いたいと思えるものである。
「大量廃棄社会」を読んだ
「大量廃棄社会」を読んだ。副題は「アパレルとコンビニの不都合な真実」で、新品の服やまだ食べられる食品が捨てられる実態をレポートした一冊。作られる服のうち4枚に1枚は新品のまま捨てられる。その実態を知ることなく私たちは気軽に服を買ったり捨てたりしている。
まだ着られる、どころか新品の服が捨てられるなんておかしい。これは誰が作った構造なのか?消費者はラインナップに欠品があるとクレームを言う。企業はそれに応えるために売り切れないほど大量に服を作る。大量に作るにはコストがかかる。だから途上国の安い労働力に頼る。途上国は成長産業を作るという国策としてそれを引き受け、無茶な環境でスタッフを働かせ、やがて事故につながる。悪者がどこかにいるというより、資本主義的な効率を突き詰めて今の仕組みが形作られていったように感じる。そしてその実態を知らずに、気軽に服を捨てたり買ったりしている自分がいる。
食品も同じように廃棄されている。本書によると日本人ひとりが1日お椀1杯分のごはんを捨てているらしい。例えば恵方巻きは元々は関西地域の家庭的な伝統だったのをコンビニが全国に広げ、「節分には恵方巻き」というイメージを作り上げることに成功した。毎年節分の日には多数の恵方巻きが作られ、捨てられる。本来は必要な売れる分だけ作ればよい。そうならないのはやはり資本主義的発想で、たくさん作ることで儲かる仕組みが根底にある(コンビニ会計というらしい)。
レストランで余らしたご飯を包んで持って帰ることは日本では難しい。それは食中毒などが起きた場合に店側の不利益となるから。自己責任にします、といっても許されない。万一クレームに発展したときの被害が大きすぎるため、企業はリスクを減らすために廃棄を選ぶ。
フードロスの章にあった「すてないパン屋さん」の話が面白い。パン屋では焼きたてが売れやすく、一日の終わりに売れ残ったパンを捨てることも多いらしい。焼きたて数回提供するために業務も忙しい。そして忙しい割に儲からず、疲弊感が漂っていたと言う。紹介されたパン屋さんは店を休業してヨーロッパに修行にいき、そこで現地の料理人が「良い感じに」手を抜いていることを知る。工程を減らし、100点を目指さず70点でもいいから楽をする。その代わり素材にはこだわる。良い素材を作っていればシンプルなパンでも美味しい。日本に帰ってきてからはそのやり方を真似し、さらに定期販売を取り入れていくら作れば良いかを明確にする。再開してからは一度もパンを捨ててないらしい。思考停止せず、あるべき姿に向かって工夫すれば道は開かれる。