いま一度積み上げ思考を取り戻す
このブログの最初に書いた日記のタイトルは「逆算と積み上げ」。ゴールからの逆算で考えるクセがついているが、逆算思考は自分に足りないものを数える作業なので苦しい。そうではなく積み上げで考えればすべて足し算なので気持ちよく生きられる、みたいな話を書いた。最近はまた逆算思考に侵されているので、今一度この言葉の意味を考えたい。
逆算すること自体は悪いことではない。目指すべき地点があるとき、逆算により必要な作業を洗い出すことができる。プロジェクトには期限があるから何かを妥協したり、誰かにヘルプを出して助けを求めたりができる。しかし長期的な話になると逆算はあまり役に立たず、いたずらに自分を焦らせる要因になってしまう。
例えば自分はWebサービスを趣味で作っているが、これはただ作るだけで楽しい。頑張って作ってるのでできれば多くの人に使ってもらえたらうれしい。ユーザーがたくさんつくとヒットサービスとなり、ヒットするとそのサービスを買いたい会社が現れたりして一攫千金のチャンスもある。純粋な気持ちの先に可能性が広がっているのは悪いことではないが、気を抜くと一攫千金というオマケが目的になり、「ヒットしないと意味がない」と自己暗示をかけてしまう。こうなると苦しい時間がはじまる。
まず、ヒットするかどうかは誰にもわからない。確率を高めることはできても、結局流行るかどうかは時代の運によるものが大きい。それなのに逆算で考えていると自分の力でなんとかできるような気がしてしまう。コントロールできないものを管理しようとすると不幸になる。自分の実力が不足していると思っていろいろ考えるが、「ヒットさせる才能」それ自体があるわけではないので脱出は難しい。もう少し分解して「技術力を高める」「デザインを上手になる」などにブレイクダウンすればコントーラブルな要素に近づく。しかしそれが本当にヒットに繋がっているかは怪しい。「絶対ヒットさせる」という命題が間違っているので、どの努力の方向も報われづらくなっている。
それに比べて積み上げの道は明るい。去年より今年、昨日より今日できることが増えていく。この道がどこに繋がるかは分からなくても毎日は充実する。疑問に思ったことを調べ、思いついたアイデアを試す。上手くいってもいかなくても次に繋がる良いフィードバックが得られる。そうして毎日積み上げた先に悪い未来は来ないような気がする。どこに出るかは分からないが、未来を信じて今を積み上げてよい気がする。
注意点として、積み上げていく方向だけ時折気にしたい。AIは顕著な例だが時代は常に移りゆく。自分が身につけているものが数年後に陳腐化しないか?それは丁的に振り返りたい。大枠の方向だけ考えて毎日は一歩ずつ積み上げる。こういう精神状態を保ちたいところ。
「わからなさ」と向き合う
学校生活で正解を求めてきた私たちは「わからなさ」の前では立ち尽くしてしまう。社会人になって仕事を始めると、最初の頃は分かりやすい正解が目の前にある。上司に認められる仕事、取引先に喜ばれる仕事。良いと思う先輩の真似をすればある程度評価される。しかしある程度の期間が経つと自分なりの答えを出していく段階に移行する。例えば後輩との接し方。細かく仕事を教えるのか、目的だけ与えて自由にやらせてみるのかに正解はない。自分が正しいと思い、後悔のない選択をしていくことになる。
「わかる」仕事をやっている場合、ゴールまでの道がある程度見えている。「考えすぎフラグメンツ」の最新回ではこれをトンネルと表現する。入り口に一度入れば、道を正しく進めば出口に必ず辿り着く。一方で「わからない」仕事の場合、これは松明をもって洞窟を歩くのに近しい。この道を行こう、という選択に意味はなく、微かな光を頼りに少しずつ道を見つけながら前進する。トンネルで壁に当たると事故だが、洞窟では壁にぶつかって得られるフィードバックは道の輪郭を写し出し、前進するヒントになる。わからなさを怖れて身動きが取れなくなるのではなく、どうしたら少しずつ周りを照らしていけるかを考えるマインドチェンジが必要になる。
Webサービスを作っていて「これをやれば必ず売れる」という正解の道は今や存在しない。そうではなく「これが良いと信じている」という気持ちで出発する。数年間作り込んでからリリースしようとすると大体失敗する。これはその数年の間に世の中が変化するし、結局のところユーザーに受け入れられるかどうかは出してみないとわからないから。どうすれば少しずつ周囲を照らせるか?コアとなるコンセプトの部分だけを作り込み、早い段階でリリースして反応を見る。本当に必要とされるものなら出来が悪くても反応がある。逆に無反応であれば、細かい部分を作り込むよりコンセプトの検証が先に必要になる。
こうした小さく始める動きはWeb界隈で主流になっている(Minimum Variable Product = MVPと呼ばれる)。小さく仮説検証するのは正しいが、小さすぎては検証の土台にも立てないことに注意が必要だ。例えば可愛いデザインに特化したTodoアプリを作るとする。タスクの登録とチェックを入れられる機能だけ作り、デザインを作り込んでリリースしてもおそらく反応は得られない。これはTodoアプリに最低限必要とされる機能(フォルダ分けやリマインダー、通知など)がないと比較の土台にも立てないから。作り込みすぎるのは危険だが、スタート地点に立てないクオリティのものを出しても風は吹かない。良いフィードバックを得られるだけの品質はキッチリ作り込む。「早めにリリースしてOK」は楽ではなく、むしろ頭を捻り続けないといけない厳しい道のりに感じている。
「急に具合が悪くなる」を読んだ
「急に具合が悪くなる」を読んだ。哲学者の宮野さんはがんの転移を経験し、いつ具合が悪くなってもおかしくない状態になる。その時の心情や様子、考えを人類学者の磯野さんと往復書簡の形でやり取りする。これがめちゃめちゃ面白く、一気に読み終えてしまった。
テーマの重さとは裏腹に、前半は意外と読みやすい。これは二人の文章のきれいさ、俯瞰してみる力、喩えやユーモアを入れていくセンスによるもの。「具合が悪くなるかもしれない」と診断された時にそのリスクをどう受け止めればいいのか?健康だと思ってる人も明日突然病気になるリスクはある。ではその閾値はどこにあるのか。こんな感じで考えたことのない命題を突きつけられる。
そんな感じで興味深く読んでいると、後半に入ってさらに深いところへと入っていく。それは宮野さんの体調が悪くなっていくこと、磯野さんの熱い言葉が出始めること。「患者」と「ケアする人」の関係で固定すれば楽かもしれないが、そうではなく共に真理を追求する仲間であろうとする覚悟を感じる。関係が曖昧になるのは怖いこと。質問を踏み込みすぎて傷つけてしまうかもしれないし、ぶつかることもあるかもしれない。それでもお互いを信頼して「ぶっちゃけどうなの」を聞いていく姿勢がこの往復書簡をさらに素晴らしいものにしている。
特にくらった部分、一つ目は多様性について。「多様性」という言葉はよく聞くようになり、ある程度世の中にも浸透してきている。しかしなんとなく気持ち悪さが残る。例えば多様な価値観を認めることが大事とされるので、強く自分の意見をぶつけづらくなっている。「それってあなたの感想ですよね」と言われたらそれ以上は踏み込めない。昔より関係性を作りづらくなっている気がする。
本書ではそれは多様性を「点と捉えている」ことが原因だという。いろんな性別・国籍・属性の人がいますね、と静止画のなかに点で表現しても先はない。そうではなく「線にする」。点と点が結ばれて線になる。個人と個人のつながり方は無数にパターンがある。あぁでもないこうでもないと悩みながら、正解のない中で二人が納得できる空間を一緒に作ること。多様性をそういう動的なものだと考えると腑に落ちることが多いように思う。
もう一つは「選択」について。不確実性については興味があって本を読んだり自分でも文章を書いてみたりしたことがあるが、この本の言葉遣いはとても分かりやすい。
結局、私たちはそこに現れた偶然を出来上がった「事柄」のように選択することなどできません。では、何が選べるのか。この先不確定に動く自分のどんな人生であれば引き受けられるのか、どんな自分なら許せるのか、それを問うことしかできません。そのなかで選ぶのです。だとしたら、選ぶときには自分という存在は確定していない。選ぶことで自分を見出すのです。
何かを決めるとき、未来を「予期」して決めようとするがそれには限界がある。そうではなく「どういう決断だったら後悔しないか。自分が腹を括れるか」で決める。わからない中を突き進むのはとても怖いこと。結果がついてこないことも多々ある。そんな中で恐れず前進するには、少なくとも自分が納得できてなくてはいけない。いろんなビジネス書を読んでたどり着かなかった答えを、この本に教えてもらった。
「踊りつかれて」を読んだ
塩田武士さんの「踊りつかれて」を読んだ。塩田さんの著書は「罪と声」「存在のすべてを」に次いで三冊目。どれも共通してキャッチーな掴み、登場人物の綺麗な心情描写などが好きで楽しく読んでいる。今作のテーマは「SNSの誹謗中傷」で、多くの人にいま読んで欲しい本。SNSでの暴論や確証のない拡散が人を傷つける。その根底には画面の向こう側に人がいるという想像力のなさがあると思うが、この本を読むとその解像度が少しはあがると思う。
好感度の高い芸能人のスキャンダルが報じられ、それにより失墜していく話は現代ではよく見かける。有名人の失敗を世間は許すことができない。自分のことは棚に上げて石を投げる姿は作中では「安全圏のスナイパー」と表現されているが、みんながツッコミで人の粗探しをしているから窮屈になる。物語自体も面白いが、誹謗中傷の被害者・加害者が精緻に描かれている点が面白い。不倫が報道されると「奥さんが可哀想」というコメントで溢れるが、奥さん当人はどう思っているのか?本人のことは本人しか分からない。人の気持ちを勝手に推測して攻撃するのは間違っている。
恋愛とはまた違う、もっと深いところの愛も作品のテーマとなっている。公私を超えてお互いを信頼する。連絡を取っていなくても気になり、相手もきっとそうだと思う感覚。少し綺麗に描かれすぎな感もあるが、人間のつながりについて素直な心を取り戻せる。作中では芸能として音楽とお笑いが登場する。クリエイティブな関係性には安心感に加えほんの少しの緊張感が必要になる。「この人に誇れる自分でいたい」その想いは素敵だが、本当に弱ったときに助けを求める足枷にもなる。Webサービスを作る仕事をしていて近しいものを感じたが、自分は辛い時は緊張感をすべて捨ててただの友人になりたいと思っている。
事実は小説より奇なり
「ショーハショーテン」という漫画がある。お笑いや漫才についての漫画で、同級生二人が高校生のためのM-1のような大会の優勝を目指して頑張る青春ストーリー。バクマンのお笑い版というと分かりやすいかもしれない。登場するコンビがみな魅力的で感動するし、漫才やコントのシーンは本当に面白い。お笑い好きの人には是非読んでみて欲しい漫画だ。
さて、「事実は小説より奇なり」はショーハショーテンの中で出てきたキーワードだ。主人公は漫才のネタが考えるなかで、ウケるネタとウケないネタの違いが分からず困惑する。そんなとき小説家の妹に相談し、打開のヒントとなるのがこの言葉だ。妹いわく、「事実は小説より奇なり」という言葉は間違っている。小説がフィクションであることはみんな分かっている。そこで無茶な設定や台詞を使ってしまうと読者は冷めて離れてしまう。つまりフィクションである小説だからこそ、「事実」と思わせる描写にすることが大事になる。それを聞いた主人公は自分たちの過去のネタを振り返り、本当に自分たちが言いそうなことを話しているネタがよくウケていることに気づく。
確かに良い小説や演技に触れたとき、最初に思うのは「本当にあった話みたい」「本当にこういう人みたい」というリアルと演技の境界が曖昧な感想かもしれない。自分の知らないところで本当にそういう場面があり、たまたま自分はそれを覗き見ているような感覚。こういう時に自分な良いものを観たなと思う。
いま読んでいる小説「踊りつかれて」にもそれを感じる。事件の描写や登場人物の言葉遣いなどが細かいところまで描かれていて圧倒される。弁護士が依頼人の人柄を知るためにいろんな人にインタビューをしていくが、その人たちの関係性が本当に見えるというか、こういう人っているよなぁという感想になる。そういった作品には没頭が生まれ、ページをめくる手が止まらず読み進めてしまう。デザインの世界にも現実世界そっくりに作るスキューモーフィズムというものがある。リアルに作り込むことで使い手の摩擦を極端に減らし、没頭した体験へと誘い込むことができる。