言語化により失われるものもある
本屋に並ぶタイトルはトレンドを反映しているが、最近は「言語化」がひとつのキーワードになっている。最近といっても感覚的には数年前。ひろゆきのディベート動画がバズったり、曖昧な概念を上手く言葉にできる人が賞賛される。しかしその兆候が強くなりすぎて逆をいきたくなってきた。
プロダクトマネージャーをやっていた頃、主な仕事は「つなぐ」ことで、経営チームやエンジニア、デザイナーの橋渡し的なことをよくやっていた。曖昧な要件では開発作業が滞り、認識齟齬が生まれると手戻りが発生してロスになる。目的や懸念事項を言語化することには意味があったと思う。しかし同時に、考えや内容を箇条書きにしてまとめるとき、自分の中のニュアンスが剥がれている感覚もあった。できるだけ誤解がないように背景を手厚く書いたとしても、伝わるのはせいぜい70%くらいな気がする。たとえばユーザーインタビューでその課題が話されたときの表情はシェアできない。経営チームで何度も議題になって、やるかやらないか迷った上でのGoとなったことは書ききれない。社風としてはオープンな会社だと思うが、そもそもすべての感覚を伝え切るのは難しい。
昔戦略についての本を読んだ時、「戦略とは初見の人が聞いて分かるようなものではない。同じ課題で悩み抜き、なんとか結論を出そうと同じ深さまで潜ったことのある人にのみ伝わる」というような一文があった。言葉にされれれば表面上は分かった気になれる。それについて議論もできる。しかし奥深くの芯の部分では共鳴できない。
いま個人で作っているサービスは友人と2人で作っている。その友人は10年ほど一緒に仕事をしており、いろんな問題の解決策や意思決定を相談しながら進めてきた。こうやって時間を重ねていると「なんとなく良い」が共有できる。過去の出来事や他のサービスで例えたり、「心地よい」というような抽象的表現でも伝わる。そしてこういうガチガチでない余白があった方が良いサービスが作れる気がしている。
言語化のスキルはある程度までは必要。それ以降は自分を信じてやれるかとか、どれだけ良いものを見てきたかとか、そういう抽象の部分こそが違いになってくるのかもしれない。