じゃんたまで雀聖になった
最近は麻雀にハマっている。じゃんたまというオンライン対戦できるサービスで遊んでいるが、朝起きて仕事前に一局、昼休みに一局、夜寝る前に二局を毎日のように繰り返し、気づけば「雀聖」というそこそこ上の称号まで来てしまった。料理や家事をしている間にはAbemaでプロの麻雀配信を観ている。Mリーガーの渋川さんのYouTubeを見て勉強したりもしている。やればやるだけ伸びる楽しい時期になっていてなかなか抜け出せない。
勝つためには良い手が入っているときは前に出ないといけない。前に出るとやられる(=放銃する)可能性ももちろんある。ガッチリガードをあげて守れば放銃するリスクは減らせるが、その裏側では自分の良い手を逃すリスクが生まれている。このリスクのバランスは仕事と繋がる。例えばXで発信しなければ炎上することはないが、その代わり自分や自分の活動を知ってもらう機会は逃すことになる。リスクとベネフィットはどちらも存在していて、その多寡を判断するのが醍醐味のひとつになる。
ネット麻雀では4位(ラス)を引くのを避けよという鉄則がある。これは4位を引くとポイントが大きくマイナスされてランクが下がりやすくなってしまうから。以前は血気盛んに前に出ていたが、それをやめて落ち着いて周りを見るようになってからはラス率がグッと減った。自分以外の誰にラスを押し付けるか?そう考えると勝負ポイントはかなり明確になる。勝負にいった結果負けてしまうのは仕方ない。避けるべきなのは不要な場面で勝負にいったり、注意不足でうっかり誰かに放銃してしまうこと。冷静に周りをみつつ、自分のベストを尽くすほかないという点も仕事に通じている。
いまは麻雀がめちゃくちゃ面白いが、この時間の使い方は夏で終わりにしたいと思っている。個人開発や読書など他にもやりたいことがたくさんあり、時間の配分はもう少し見直したい。最近はAIにタスクを依頼してその間に麻雀をすることもあるが、麻雀しながらもAIの実装が気になってチラチラ見てしまい落ち着かない。どちらも中途半端なマルチタスク状態になり、AI開発と趣味のどちらも楽しめなくなってしまう。効率化は良いけど没頭はひとつずつ。遊ぶときは遊び、学ぶときは学ぶ切り替えを大事にしたい。
「ゆるストイック」を読んだ
「ゆるストイック」を読んだ。本屋さんでいまの売れ筋としてよく紹介されていたが、紹介されすぎて逆に手に取らず敬遠していた。何かの書籍かブログで言及されていて興味を持ち購入。読んでみるととても面白い。ここ数年で自分が読書したり文章を書いたりしながら考えていたことが言語化されて一冊にまとまっているという感覚で、パラレルワールドの自分が書いたのかと錯覚するほどであった。
まず表題の「ゆるストイック」は「競争にとらわれすぎず、かといって怠惰でもないスタイル」を指す造語。Z世代よろしく最近の若者は競わない。それは他と比べて上にいくことの無意味さを感じているからだが、この競わない性質は「頑張らなくていい」とはまた意味合いが違う。彼らも本当は頑張りたいし、何かに打ち込みたい。ならば競争ではなく没頭を目指そう。自分のやるべきことを明確にしつつ、そのスタイルを周囲には押し付けない、それがゆるストイック式。
自分がエネルギーを注ぐ領域はどう見つければいいか?それは自分の得意なことから探す。自分ではなんとも思ってないことで周りからすごいと褒められた経験を思い返してみよう。他人にとっては大変だけど自分にとっては余裕なことがあれば、それは特技といえる。得意領域を見つけたらそこで継続して頑張ってみる。続けるのが辛いと思わないだけで、そこでは実績を積み上げやすくなる。
数年前までは「ゴールまでの道のりを逆算しろ」とよく言われた。しかし今は不確実性の時代。ゴールまでの道のりが見えないことも多く、無理にロジックで説明しようとすると逆に視野が狭くなることもある。「頑張ればすぐに成果が出るはず」と意気込むのは、逆に結果が出なかったときに燃え尽きてしまう要因になる。逆算じゃなくて毎日積み上げる。たまに成果が出たらラッキーだと喜び、すぐに忘れて変わらずまた積み上げる。そんな態度が望ましい。
本書で一番面白かったのは脳の機能低下の話。人間の生物学的なピークは、
- 18歳で身体が完成する
- 28歳で脳の発達が終わる
- 38歳で生物学的に寿命を迎える
らしい。老化がはじまって最初に起こるのは「意欲の低下」、つまり新しいことにチャレンジする気が起きなくなる。自分がリスクを犯して何かにチャレンジするより、それまで培ってきた経験を次の世代に伝えて育てていく役目に移り変わるよう設計されている。よくデザインされてるなという感じだが、しかし人生100年時代の今では38歳を越えても好奇心は保ちたい。そんな時は習慣を利用する。毎日10分散歩すると決めて、ただ毎日それをやる。人間の脳は面倒くさがりなので毎日やってることがあれば頭を働かせず自動でそれをやることにする。やりたいことを小さく分解して習慣化すれば、歳を重ねても新しいことにトライし続けることができる。
嫌なことがあったら紙に書いて丸めて捨てる。脳は現実とイメージの世界の区別が得意ではないのでそれだけでも気が楽になる。何か没頭できることがあればそれも脳には良い。何かに集中してる間は他の雑念に捉われず良い健康状態を保つことができる。
競わない、積み上げ、没頭、不確実性、自分の得意の見つけ方。最近自分が考えていたテーマにドンピシャで一気に読み終えてしまった。調べたら著者の佐藤さんは2歳上でほぼ同世代。この世代が見てきたり経験してきたものをまとめると、近しい出口に通じているのかもしれない。
プレミアムフライデー
日本人は働きすぎ、ヨーロッパではバカンスを取るのは当たり前などの話を聞くといつも思い出すことがある。
プレミアムフライデーは働き方改革の一環として政府が一時期プッシュしていたもので、月末最後の金曜日は早く仕事をあがって遊びましょう、みたいな内容だったと記憶している。世間の反応は様々だったが自分の働いていた会社はかなり積極的で、プレミアムフライデーの日は15時には退勤することになっていた。10時から仕事、昼食を挟んで15時退勤なのでその日はほとんど働かない。退勤したあとは飲みに行ったり、ダーツ(当時ハマっていた)を練習しに行ったりしていた。
金曜日はチームの振り返りミーティングがある日だったので、会社のフリースペースでケーキを食べながら振り返りをしたこともある。振り返りはどんな意見でもたくさん意見が出る方が良い。仕事とプライベートの境目のようなゆるい雰囲気は意見出しには適した空気感だった。
少しずつプレミアムフライデーの習慣は薄れていき、仕事も忙しくなり自然消滅のような形で早い時間の退勤は消え去った。でもこの時期に一緒に働いたメンバーとは今も仲が良く、それはこういう時間の余白のようなものが影響している気がする。リモートワークにはサボってしまう問題、働きすぎてしまう問題の両方がある。目の前に一生懸命になる時間は必要として、それはそう長くは続かない。雑談するとか仕事に関係のないものを作るとか、たまに力を抜いて遊びを楽しむことも忘れずにいたい。
いろんな問題にトライするから解決策を見つけた時に気付ける
進研ゼミの漫画に「あ、これ進研ゼミで見た問題だ!」というテンプレがある。進研ゼミで学んでおくと試験にそのまま使えるというPRだが、実際の社会では逆の方が多いと思う。つまり、ある問題に挑んで解けなかったことがあるからこそ、本やネットでその解法を知ったときに本当の意味で腹落ちできる。
学校のテストには正解があるが社会に出てからの仕事にはそれがない。そもそも正解がないような問いもあるし、間違ってるのに正解のような態度で貫き通してしまう人もいる。つまり絶対の正解が見つからない場合が多く、そんな時は調査した上で「これでいこう」と腹を括って前に進む。自分の決断を正解にしていく作業をそこから始める。
正解がない状態は怖い。そんな時に頼りたくなるのは先人たちが編み出したフレームワークで、これは解答集といえるかもしれない。解答を見れば答えは分かる。でもそれを自分で導き出してないので血肉にはならない。本をたくさん読んで誰かの考えをなぞっても自身が成長することはなく、本当の学びはいつでも実践の中にある。
知識をすべて覚えるのは不可能。なので実際の問題に挑み、詰まったところを振り返って学んで知恵にする。基礎となる教養は身につけておくといい。教養は知識のベースとなり、応用的な内容を理解しやすくなる。また、物事が複雑になってくると比喩表現が大事になってくる。「これはサッカーでいうところの〇〇だな」のように自分の知ってるもので例えることで知識がリンクしやすくなる。
いろんなことに興味を持ち、手や体を動かして試してみる。うまくできないことの方が多いが、それは自分のなかの疑問符として残り続ける。人生やってるとその疑問符が回収される瞬間がある。その瞬間が楽しいし、ひとつ知恵のレイヤーの重なりが増えた感覚になる。疑問がたくさんある状態は良いことだ。
「疲労社会」を読んだ
「疲労社会」を読んだ。スキルや成果を競い合う現代社会、私たちは疲れている。最近はさらにAIが登場し、日々の生産性をさらに高めることを求められる。その疲れの根本はどこにあるか?それは意外にも現代で良いとされる「主体性」「自由」にある。
規律を定めてそこからはみ出すものを罰する社会から、いまは自律性を重んじて高め合う社会になっている。他人に怒られて気を病むのではない。できない自分を自分自身が追い詰めてしまう。そしてそれは自由を与えられ、他者や過去の自分と競い続ける構造に捉われている。
他人から与えられた仕事なら、それを上手くこなせば褒められて一定の満足が得られる。自分で追い求める仕事は、成果が出たら次はもっと上手くやろうとさらに上を求める。この欲求には際限がない。その結果無限に自分からエネルギーを搾取することとなり、疲れ果ててバーンアウトしてしまう。
人は活動的になればなるほど、それだけいっそう自由であるというのは、ひとつの幻想であろう。
いろんな場所に行っていろんな人と会う。活動的なことは基本良いものとされているが、受けたインプットをそのまますべて表現してしまうとエネルギーが消耗されすぎてしまう。自分のフィルターを通して選別する。良い刺激は受け入れ悪い刺激は無視する。自分の中のブレーキを育てることが本当の自由に繋がっていく。
マルチタスクは、後期近代の労働社会および情報社会に生きる人間だけに可能な能力ではない。むしろそれは退化である。
マルチタスクは野生動物にも広く見られる。注意に関する技術は、野生を生き抜くためにも必要不可欠なものである。
「マルチタスクをこなす方法」などと生産性向上を謳う記事がたまに出るが、人間の脳はシングルスレッドで複数のことを切り替えながらやると必ずパフォーマンスは落ちる。マルチタスクにこなす力は現代のスキルのように言われるが、野生をサバイブするためにそもそも必要で古来よりあるスキル。むしろひとつのことに没頭する能力の方が人間が文明ともに手に入れた能力なのかもしれない。