「推し」の感覚がない
強い「推し」というものがない。好きなアーティストはいるけど推しとは違う気がする。例えばTHE LAST PIECEからデビューしたSTARGLOWのメンバーはみな好きだし、出た曲も聴いていきたいとは思っている。でもFIRST TAKEでSKY-HIが熱い演出をしてるのを見ると笑ってしまう。コメント欄では絶賛する声が並んでおり、「あぁこれが箱推しだな」などと勝手に距離を感じている。
この感覚は前にもあったなぁと思って考えていたが、分かった。お笑いライブだ。昨年真空ジェシカの漫才ライブツアーのチケットが当たって行っきてきた。真空ジェシカは大好きで、最近で一番ネタが楽しみな芸人といっても過言ではない。当日披露されたネタもどれも面白かったが、正直面白くないボケも中にはある。賞レースの決勝でもないしそれはそんなもんだと思ってるが、そのボケで会場が沸くほどウケていた。冒頭の距離を感じる話はその時の感覚に似ているな。好きなんだけど、すべてを肯定しているわけではない感じ。
「誰が言うかが大事」というのは確かにあると思う。同じ言葉でも、修羅場をくぐってきたベテランと、本でかじった知識で言っている入門者とでは乗せられる重みは違う。しかし「この人が言ってるから絶対正しい」となるとそれも気持ち悪い。信頼できるソースでも、自分の頭で考えることは放棄したくない。
会話の関係性
スタバでパソコンしてると隣に高校生が座る。男2人組。テスト前らしいが勉強はせず、スマホとタブレットで一緒にゲームをしている。
基本はゲームの会話だがたまに雑談もする。それが「衣替えいつからだっけ?」「知らん」とか、「あのドラマって面白い?」「観たら分かる」みたいにすべてワンラリーで終わる。会話を膨らますみたいな概念ないのか?と思ったけど高校生の時はそんなものだったかもしれない。
別の日、雰囲気が良いカフェで本を読んでると隣に男女が座る。おそらくマッチングアプリで会うことになった初対面の2人。お互いの趣味や歩んできた人生を聞いたり話したりしてどんどん仲良くなっていく。ちゃんと話を聞き、お互いを尊重していて終始楽しそうにしている。
この2組のコミュニケーションの違いはどこから来てるのか?本人の属性か、性別か、大学の初期という色んな人と話さざるをえない時間を経たかどうかか。目的の違いかもしれないし、関係性かもしれない。仲が良いと一緒にいすぎて逆に喋ることがなくなったりもする。高校や大学のときそうだったなと思い返す。
来週いよいよ髪を切ろうと美容院を予約。久しぶりにパーマにしようとメニューを選んだら3時間コースになるらしい。世間話を永遠とするのが苦手なので不安がある。最近は前髪が視界をふさぎすぎて頭痛のタネになっていたので短くなること自体は喜ばしい。何度か通った場所で美容師さんも悪い人ではないのだが、果たして。
余白がありすぎてもよくない
朝起きて一穂ミチ先生の小説「光のとこにいてね」を読む。一昨日から読み始めたが続きが気になって仕方なく、スキマ時間を見つけては読み進めていた。昼前に読み終わって読後感良し。なんというか良い物語に触れたという気持ちで、充実した時間だった。
朝食を食べて身支度。今日は日中は外に出ようと思っていて、梅田のカフェに行くつもりだったが本を読んでたら遅くなってしまった。今からいくとお昼時と被って入れないかもしれない。色々考えた結果自転車で10分くらいの幹線沿いのカフェに来る。
慣れないカフェに来るとまずメニューにノンカフェインがあるかを探す。いざとなればカフェインを摂取する構えはあるが、体がフラフラになってしまうのでできればノンカフェインが好ましい。ルイボスラテというのがあったのでそれを注文。かなり美味しくてうれしい。
ここで何をやるか。パソコンができるカフェを選んだので選択肢が多い。個人開発で作りたい機能もあるし、読みたい本もあるし、久しぶりにまとまった文章をnoteに書きたいとも思っている。こういう何してもいい時間は至福だが、こういう時間があとどれくらい残っているのか。
「自分と向き合ったり良いアイデアを思いつくためには余白が大事」とよく言っていたが、余白がありすぎてもよくない場合もあるのかな、と最近思い始めてきた。いまの生活は週3で仕事をし、残りの時間で個人開発をしている。個人開発もハードに詰め込むというよりは生活重視で進められるときに進めるみたいな感じ。そうなるとかなり余白の多い過ごし方になる。
立ち止まれる時間が多いと考える時間が多くなる。「この方向でいんだっけ?」「この作業って意味あるんだっけ?」みたいな。しかし細かい作業ひとつがターニングポイントになることは少なく、大抵はいくつかを積み重ねてようやく結果が変わる。ある程度の方向性を定めたら考えすぎずに黙々と手を動かす時間が大事だったりする。余白が多すぎるとすぐ手を止めて考えてしまう。
今必要なのは淡々とやること。大体の方向性があってれば毎回正解じゃなくていい。間違った機能を作ってしまってもいい。いきなり完全なものを作るのは無理なので、足したり引いたりしながら望ましい形に近づけていければいい。
親切はゼロサムじゃない
ゼロサムゲームとは誰かが勝つと誰かが負け、そのプラマイを総和するとゼロになるもの。仕事をしているとなんとなく世の中はゼロサムな感じがする。チームの誰かの評価が高ければ誰かがC判定になる。業界でどこかの会社が勝てば、別の会社は業績が伸びず苦しくなる。
でも親切はゼロサムじゃない。誰かに親切にされるとうれしくなって良い気分で過ごせる。その日はいつもより少し優しくなり、周りの人たちに親切に接せられる。それで気分がよくなった誰かはまた他の人に…という感じでサイクルが回る。良い気分が増幅され、世の中の幸福の総量が増えている。
親切にしてくれた人に直接返すのではなく、他者に広がっていくのがポイントかもしれない。例えば恋人に愛を注いだとき、同じ量だけ愛が返ってこなかったら寂しく思う。それが続くと諍いになることもある。愛の形や量は人によって捉え方が違ので、「等しい量を」がうまくいかない。1:1で直接やりとりしているとこういうすれ違いが起きる。一方的に親切にして、なんか自分も気分がいいな、くらいがちょうど良いのかもしれない。
本当に大切な周りの人には愛をたくさん注いでいい。でも関わる人みんなに愛を、とか思ってると自分がしんどくなるときがある。そんな時は愛より親切を。親切は見返りを求めず、気持ちを軽やかにしてくれる。
生活を商売にしない
Webサービスやアプリのアイデアを考えるとき、自分や周りの人が困ってることを解決するものを考えると良いという話がある。誰のためか分からない曖昧なものを作るより少なくとも一人に刺さるものを作る。大体の場合同じ課題で困ってる人が他にもいるので、深くその課題を解決するものであれば自然と広がっていきますよ、という考え方だ。
このマインドをもって生活していると些細な困り事に目がいくようになる。「これ不便だな」「こういうアプリがあると便利そうだな」みたいに。でも最近はそういう小さいチャンスみたいなのを見つけるのに疲れてきている。色々思いついて作ろうとして、それがすでにあって、みたいなループに消耗している感がある。
「自分をいかして生きる」の中にパン屋さんの話が出てくる。そのお店の方が
商売になってしまわないようにするのが大事。家庭の味を商品にして売るのではなく、単純に家庭の味をつくって提供したい。
と言っている。
身の回りの出来事をいちいちアイデアに結びつけるのは生活を商品にしているに近い。単純に自分が欲しいものを作り、それ自体に満足したうえで、ついでに同じように困ってる人いたら使ってね、と差し出すくらいでちょうど良いのかもしれない。
「これ流行りそうだから作ってみよう」と作るものは大体流行らない。それは流行るまで続ける胆力がないから。すぐにうまくいくことは稀で大抵は下積みの時間がある。うまくいかなくても取り組み続けられる、自分なりに意義を感じていたり興味があったりするテーマに時間を注ぎたい。