最近の生活
朝7時頃に起きて朝食を食べ、9時頃の仕事開始まではゆっくり過ごす。以前は近所を散歩してたが暑すぎて今はやめている。7時代ならそこまでかなとは思いつつ、セミが一生懸命鳴く声を聞くと外に出る気が起きない。朝はテレビをつけるようになった。「おは朝」という関西で人気の番組。世の中で起きていることをなんとなく知るにはやっぱりテレビは強い。でも阪神タイガースの特集の時間が長すぎる気もする。朝食はパン派だが最近は卵を焼くようになった。ゆで卵やスクランブルエッグなどその日の気まぐれで調理して食べている。
仕事はひとりでやるものが多く、日中はほとんどミーティングがない。AI活用支援的なことをやってるが、世の中的にも今はまだAIの正解の使い方はなく模索している段階。手を動かして学ぶ、いろいろ作ってみる。良いものは残りイマイチなものは消えていくがそれでいい。この初期の頃に良い・悪いの感覚を掴んでおくことが大事だと思っている。学んだことは社内の勉強会で話したりブログに書いてまとめたりする。こうして積み上げていけば前にしか進まない。丁寧に一歩ずつ詳しくなるのが面白い。
夕方頃に退勤して料理。最近は買い物のときは安い食材を大量にまとめ買いしており、冷蔵庫に残ってる食材をクラシルに入れてレシピを探す。前日と味付けが被らないように選んで作る。翌日の昼のために量は多めに作る。作っている間は耳が空いているのでPodcastを聴いたり、最近はAbemaTVで麻雀対局を見ている。ひとつの対局でも2時間弱くらいあるので次の動画を探す必要がなくて良い。そして解説を聞いているだけで上手くなっている気がする。
夜ご飯食べた後は個人開発か読書や麻雀をしている。というか最近は9割くらい麻雀をしている。会社の麻雀大会が近いのでそこに向けて勉強中。半年前の自分より判断が良くなっている実感があり、成績的にも段位があがってきた。こういう伸びをダイレクトに感じれるときはやっぱり面白い。個人で作っているWebサービスの改善もやる。AIに指示をしたら勝手に機能を作ってくれる体制が整いつつあるので、指示だけ送って自分は麻雀をしている。未来の働き方のような、マルチタスクを強いられているような・・。最近はスマホがなかった時代を思い出す。小学生の頃、休みの日は朝起きて何してたっけ。多分兄とゲームをしたり、何度も読んだ漫画を寝転びながら再読したりしていた。そうやって過ごして「時間がもったいない」という感覚になったことはない。何かのゴールがあるから時間効率を考える。ただその時間を楽しむ度合いを高めたい。
風呂に入り、日記を書いて1時前にはベッドへ。寝る前はパソコンを見ずに本を読みたいと思ってるが最近はこれという小説を見つけられていない。寝室に置いてるサーキュレーターがカタカタ音が鳴るようになってしまった。角度や置き場所を工夫して音が鳴らないよう工夫しようとするが、無理な場合が多く5分くらい格闘したら諦めて寝ている。昔から寝付きは良いので横になるとすぐ睡眠に入り、翌朝また活動。こんな感じで1日を過ごしている。
「ケアしケアされ、生きていく」を読んだ
「ケアしケアされ、生きていく」を読んだ。「能力主義をケアでほぐす」の竹端さんが、能力主義〜の前に書いた本。ここ数年は生産性主義から離れたい気持ちが強く、特に最近は何も生み出さない時間との向き合い方を深めたいと思っている。能力主義〜はまさにそういう本だったので出会えて感動。補強する意味を込めて前作を読んでみようと購入して読んでみた。
線を引いたところをいくつか紹介。
具体的な他者が必要なんだろうな、と思うのです。それは、問題をズバズバと解決してくれる、アドバイスをしてくれる、「カリスマ」や「スーパーマン」ではありません。
(中略)
そうではなくて、あなたの言葉にならない想いやしんどさ、苦しいことを、そのものとして表現しても否定されない。そのうえで、じっくりとただ聞いてくれて、できそうなら共に考えようとしてくれる。そんな存在が必要なのではないか、と。
ドラマのヒーロー、あるいはYouTubeに流れてくる切り抜き動画は「これが正しい」と言い切る。それは強い姿勢だが、実際に自分が悩んでいるときは強者には相談しにくい。相談したい相手とは自分の言葉に一生懸命耳を傾けてくれて、一緒に考えて悩んでくれる人。明瞭なアンサーがなくてもその時間一緒に考えてもらえるだけで心は軽くなる。そして子供の頃から「周りに迷惑をかけてはいけない」と教えられる私たちにとってそういう人を作るのは難しい。
テレビを見ている子どもに注意をしたいなら、まずは「話したいことがあるのだけれど、テレビを消してくれない?」と尋ねることから、はじめる必要があります。真剣な表情でそう伝えた上で、テレビを消してもらい、相手にわかるように、こちらが注意したい内容を伝えることです。
ケアは一方向に上から指示するのではなく双方向に行われる。対等な立場で一緒に考えること。一方で危険な行動などは教える必要があるので、社会人でいうところのティーチング・コーチングの違いがケアにも求められる。
この自己責任論って、突き詰めていえば、「自分でできる人は何をしてもいいけど、自分でできない人は何もするな」という排除の論理だからです。
(中略)
「できる一つの方法論」を考え合えばよいのに、「できない100の理由」をまくし立て、最初から拒否する。それを受け入れる。
電車の乗降に介助がいる障害者が無人駅で降りようとしたところJRの駅員に止められて問題になった、というニュースを受けてのコメント。自己責任は平等に見えて、その人の背景や特徴を考慮していない点で実は不平等な側面もある。健康な期間は良いとして年をとって足腰が弱くなったとき、遠出を諦める、あるいは社会が協力してサポートしてくれる、どちらの世界が良いか?各々に事情はあって反射的にNOを言いたくなることも多いが、一度立ち止まってうまい抜け道がないかみんなで考える時間を取っても良い。
大事なことにメモリを使う
メモリはとはコンピュータの部品のひとつで、データを一時的に記憶しておく役割を持つ。例えば10+5を計算するとき、10と5、それから加算するということを一時的に保持しないといけない。これはコンピュータの中ではかなり重要な仕事になる。
メモリはよく「作業机の広さ」と例えられる。狭い机の上では紙を1枚くらいしか広げられない。机のサイズが大きくなると横に辞書を置いたり、参考となる資料を並べたり、途中まで書いたけど後回しにした別の紙を端に置いておいたりできる。メモリ容量が大きくなると仕事が効率化し、やりたいことが早く進むようになる。
人間の思考もこのメモリに近しいところがある。体調や友人関係などの悩みがあるとき、その悩みが頭の中の5割くらいを占有してしまう。残りのスペースで仕事も一応できるが効率は出ない。やるべきことを明確にし、そこに没頭して集中できると自分でも驚くほどのパワーが出る。ひとつのことに集中できると人間は強い。
この人間の持つメモリを阻害する要因は本当にたくさんある。例えば休日にカフェに出て本を読んでいる。楽しく読んでいたが、途中でふと「家の鍵閉めたかな?」と不安になる。一度思うと逃れられない。この後は70%ほどの出力で本を読むことになる。人間関係も大きい。家族や友人との諍い、上司から評価されない、部下に尊敬されてないなどの思いはノイズになる。「人からこう見られたい」自意識も邪魔になる。作業机の上を綺麗に保つのはなかなか難しい。
周りでいろんな事象が起きるのは仕方ない。改善の余地があるのはその事象の受け止め方だ。例えば日記を書いたりマインドフルネスの時間を取ったりして阻害する要因に自覚的になる。考えた結果自分ではどうしようもないなと思えたら気が楽になるし、一過性だから我慢しておけば良いかと思っても気が楽になる。何度も何度も出てくる要素は自分の壁。それは本気で向き合い早めに対処する。こうしてメモリを広く保つ努力をすれば、少しずつ自分たちの持つ100%の力を出しやすくなってくる。
初期衝動
AIにプログラミングしてもらう体験が面白すぎる。一年、いや半年くらい経つと慣れてこの感覚を忘れてしまいそうなのでメモしておく。
AIコーディングは大きく「伴走型」と「委譲型」に分けられる。伴走型は人間がパソコンの前に座り、AIに指示を出し、成果物をレビューしながら少しずつ前に進む方法。委譲型はもっと大胆で、最初に仕事の内容を丸ごと伝え、人間のいない間にそれを実装しておいてもらうもの。これまでとの違いが大きいのは後者。お風呂に入る前にやってほしいことを箇条書きで書き出し、それを伝える。自分は風呂に入りドライヤーで髪を乾かす。パソコンの前に戻ってくると「実装が完了しました!」のようなメッセージが表示されている。「あ、そういえば依頼してたな」と思い出してちゃんとできてるか確認する。ほとんど思い通りに動いていて感動。まさに自分の分身が得られたような感覚になる。
複雑なタスクの場合は失敗することもある。そんな時でもAIは「できました!」と言っている。これは仕事の達成条件が明示されていないのが原因。「最後にこういう確認コマンドを実行して、それがPassしたら完了です」と次からは伝えてあげる。するとAIは最後に確認コマンドを叩き、それがエラーになったらエラーメッセージを見て修正し、修正がうまくいったら完了としてくれる。まさに「自律型」エージェントといえる。
委譲型で任せられるタスクは限られる。一番任せやすいのは画面系の機能開発。一通り触って問題なければ大体OKだし、見た目に関するコードはよく書き換えるのでサービスの根幹になりにくい。その機能が使われなければ廃止することもある。丁寧に作るよりもスピードが重要な部分で、これはAIにフィットしやすい。
逆にデータベースとかログイン周りの処理とか、サービスの根幹に関わる部分は任せにくい。データベースを適当に変更されると影響範囲が大きすぎるし、ログインや認証の実装をミスるとセキュリティ的な事故に繋がりかねない。こういった部分は伴走型で、人間立ち合いのもと進める必要がある。
AIは世の中のコードから学習してるが、その学習コードにわざと悪意あるコードを混ぜ、AIに罠をしかける動きが警戒されてるらしい。そうなると今後はAIに触らせる範囲はもっと限定的になってくるかもしれない。新しい技術の可能性を、悪意ある一部の人間が狭めてしまう。インターネット初期から変わらないサイクルだが実に虚しい。
世の中への解像度があがる瞬間は面白い
縁あって某FMラジオ局の方とお話しする機会をいただいた。大学の頃からお笑いラジオが好きで今でもずっと聴いており、ここ数年はPodcast番組を友人とやっていたりもする。趣味が高じてAIがラジオを作るWebサービスを作ったりもしたが、その業界の人と話すのは今回が初めて。1時間ちょっとの短い時間ではあったが業界の状況や課題感など濃い話を聞けた。こうやって知らない世界を知る(≒知った気になる)のはいつでも面白い。
振り返れば大学生のときの就職活動で、それまで聞いたことのない会社が重要な仕事をしているのを知ってワクワクした。当時は業種や業界というカテゴリ分けがピンと来ておらず、外資系企業がどういう特徴かなどは知らず、調べながら少しずつ整理できるのが面白かった。
社会人になりたての頃、異業種交流会的な場に参加したこともあるが、それはしっくり来なかった。ただ色んな業界の人と話せれば良いわけではなく、自分の関心を満たせるかが自分にとって大事だったように思う。今まで曖昧だった線引きがクリアになったり、知らない仕事の解像度があがったときにテンションがあがる。色んな人と薄い内容を少しずつ話す場所ではその興味は満たされない。
ここ数年だと英語、水泳、日記が新しい趣味として定着した。好奇心のままに行動できて幸せに思っていたが、英語や水泳など「昨日の自分より上達している」ことを嬉しく思うのは生産性主義的な発想だと最近読んだ本にあった。確かに自分はプログラミングが上達しているかとか、過去に比べて今どうなったかというのをよく振り返る。これは他人との比較ではなく過去の自分と比較する発想だが、その本によるとそれもまた生産性主義に捉われているらしい。子供の時間の過ごし方を見ると「ただその時間と向き合っている」。過去と比べて上下することもないし未来を怖れることもない。ただその瞬間を生きる姿勢を取り戻せれば楽に生きれる、というのは感覚的には理解できる。
イマに生きるという意味では冒頭のラジオ局はただその空間にいるだけで楽しかった。収録ブースを横目に打ち合わせしたが、機材やパーソナリティの方の様子を見れて眼福。これが何に繋がるというわけでもないが、ただ良い時間を過ごせたというので満たされた時間だった。