AI漫画とカラーボイス
連休明けの仕事一発目、今日は朝から雨で散歩には行けない。気になっていたNano Banana Proを試す。文字を入力するだけで簡単に4コマ漫画が作れて驚いた。セリフのテコ入れも簡単で画像生成のレベルがひとつあがってるなぁ。
最近はXやInstagramを見ていても漫画のコンテンツが多くて目によく留まる。商品やWebサービスの説明を長々とテキストで書かれても読まないが、漫画なら読む。他の表現とは違う訴求力があると思う。
PR漫画とかはもう全部AIになるかと思ったが、広告は「いつもの画風」で描かれてることが大事なのかもしれない。いつもの場所に現れるから親しみを覚える的な。そう思うと漫画を作れるだけでは片手落ちで足りてないのかも。
AI系でもう一つ、クローンボイスを試した。これは自分の声を10秒ほど録音すると特徴を真似た声を作れ、それで文章を読み上げられるというもの。自分の声でやってみたらかなり精度が高い。AIの進化が進み、何を作るかのテーマ決めの重要性が増してきている。
田舎と都会

田舎と都会の両方に住んで思うのは、意外にも都会の方が緑が多いということ。都会は少し歩くと広々とした公園がある。都市設計されている。田舎は野山はあるが広い公園はない。車での移動が前提とされている感がある。
田舎にも段階があり、たまにXで見かけるポストをみると自分の生まれ育った場所は田舎とはいえないかもなぁと思う。近くにコンビニあったし。まぁ本当の田舎がどこかを決める意味はあまりない。
天気が良かったので散歩し、ミニストップでソフトクリームを買って食べる。ミニストップは地元にはなく、スイーツが美味しいコンビニだと教えてくれたのはヤフーの先輩か同僚だったように思う。六本木の街のなかにあった。周りは賑やかなお店ばかりで少し疲れた雰囲気に見えた。
精神科医の方が書いた子育て日記「now loading」を読んでいる。ikuzineを読んだ時も思ったが、子供のちょっとした成長を日記に書き留めておくのはとてもよい。子供の生活をみて医者の観点からひと言添えたり、しっくり来る英語の表現を当てられたりして面白い。こういう「専門職から見た」系のものを読むと自分は何の専門家でもないなと思わされる。エンジニアではあるけど技術の芯の部分は捉えられてない気がするし。
研究者もいれば、それをアプリケーションとして社会実装するエンジニアも必要だよな、と今日も自分を言い聞かしている。
気持ちよくないお金の使い方
運営しているzenncastというAIラジオが数日前からエラーになっている。内部で使っているDifyというツールのプラン変更が原因で、修正するには有料プランに入るか自前で作り直すしかない。自前だと時間がかかりすぎるかな・・と思い朝起きて有料プランにアップグレード。値段はクーポンを使って50ドルほどで、zenncastは1円も稼がないサービスなのでそのまま赤字になる。
朝食を食べたあともこの判断があっていたのかモヤる。新卒の頃なら完全な無料にこだわって自前で作り直したと思う。今はちょっとした勉強代なら払っても良いと考えているが、この費用は勉強代でもなく、「めんどくさい」にかかったお金な気がする。頭がいっぱいになったので自前で実装していくと夕方頃にはリプレースが完了した。となると50ドルは今日1日のためだけに払ったことになる。うーーん。
大事なところにお金を使うのは良いが、適当に散財するのは心地よくない。今日のDifyや、先日3万くらい払って購入したアニメーションライブラリには後悔が残る。やってみたら意外とすぐできた、ということはよくある。今度同じことがあればまず1日リプレースを試し、それで無理そうならお金で解決することにする。今日の50ドルはその勉強代と、AI関連のツールの知識、優れたUIデザインを教えてくれたDifyへのお布施ということにする。
「傷つきやすさと傷つけやすさ」を読んだ
「傷つきやすさと傷つけやすさ ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと」を読んだ。最近はケアの本をよく読んでいるが、その中でも本書は3本の指に入るくらい面白かった。本屋でたまたま手に取った本なので、出会いに感謝。
まずは冒頭のくだり、「我思う、ゆえに我あり」でお馴染みのデカルトについて。彼は「自己」についての考えを書いていたが、そこには彼の身の回りを世話していた人物への言及がなさすぎることを指摘する。さらにデカルトは貴族の出で受けた教育も良い。特権を享受しつつもそれを自覚せず、あたかも普遍的なもののように表現することはケアを無視しすぎている。この指摘がまず面白い。
そしてケアを無視していることは現代にも通ずる。例えば会社での競争主義は男性が中心となっており、それは家にいる女性にケアを押し付けて成り立ってきたものといえる。自分はいまそれなりに仕事もできて楽しく過ごせているが、それは自分の才能や努力のおかげではなく、そもそも家の中が落ち着いて勉強できる環境で、困ったら塾に通わせてくれる親の考えや投資があり、その結果大学まで何不自由なく進めたことが要因として大きい。しかし気を抜くとそれを忘れてしまう。これはケアにスポットライトが当たりにくい状況を意味する。
自分の力で、という考えは自分にも牙を剥く。例えば自分が動けなくなったり、家族の介護をする必要が出たとき、「人に迷惑をかけないようにしないと」「家族のことは家族で」という考えが出てくる。これはケアの役割を家庭に押し込めていたのが自分に内面化されており、自己責任論として自分にのしかかる。
本当は人間は弱いので、困ったら周りにサポートを求めればいい。「困ってます」と言って助けを乞えば誰かが手を差し伸べてくれる。でもそれが自分の論理のせいでできない。そういう空気を自分たちで作り上げてしまっている。
言ってしまえば、私たちは常に誰かを傷つけている。「結婚しました」という報告は「自分も結婚に向けて動かないといけないのかな」というプレッシャーを与えるし、「仕事がこんなに順調です」という発言は仕事が楽しくない人をさらに悩ますことになりかねない。自分も週末によくプログラミングして趣味のアプリを作っていたが、それを見た同僚から「土日に勉強してないなんてダメですよね」みたいに言われたことがある。実際はまったくダメではないが、何かのメッセージは常に誰かを傷つけうる。そしてその人たちの暮らしや考えが自分から見えてないことが多いので、この傷つけは知らないうちに起きている。
著者の方はこう述べる。
「もしかして私は誰かを差別しているのではないだろうか?傷つけているのではないか?」という畏れをもち続けることでしか、自らの傷つけを減らすことは難しい。
誰も傷つけないことは無理だ。であればせめて、自分の発言を反芻して考え、できるだけ聞く人のことを慮って発話することしか自分にはできないのかもしれない。
そして相手からの「傷つきました」というフィードバックには真摯に耳を傾け、それ以降の発言に反映させていく。こうして少しずつ見える視界を広げていく。
無料サービスはいずれ有料化する
テレビで「ゴチになります」を観る。ちゃんと見たのは数年ぶりか。実家にいる時は楽しく観てたが、いまは一品一品の値段というよりは豪華メンバーによる掛け合いとか、コーナーが重視されてるような印象を受けた。長く続く番組は変容を遂げますね。「脱皮しない蛇は死ぬ」という言葉を思い出した。
昼は買い物に行き、久しぶりに服を買った。モンベルのあったかズボン。登山するわけではなく家用なのでオーバースペックではあるが、履き心地と暖かさを優先して購入。この冬はこれで過ごす。
AIラジオのzenncastは1年半くらい毎日自動更新されてるが、朝にエラーの報告が来ていた。見てみると裏側で使っているDifyというサービスが原因で、どうやら今月から料金プランが変更になったらしい。
イチからシステムを作り直すのも面倒だし、いったん有料プランに入るかな…今時点ではそこまで価値を感じてないのだが。AIもかなり賢くなってるので、リニューアルがてらフルスクラッチで作り直すのはありかもしれない。
インターネットの無料サービスはこんな感じですぐ有料化する。最初の無料期間は集客のためだと分かってはいるけど、開発者としては面倒でしかないな。