育児日記 5

1/8
17:00
4日ぶりに会うと顔が大きくなっていて驚く。
抱っこすると重い。おむつ替えのとき、太ももが立派になっている。
22:00
「ウンッ」のような声を出すようになってきた。
1/10
16:00
1ヵ月を祝う。おむつを並べて写真撮影。
19:45
おむつ替えの時におならが出てうんちを手に浴びる。
21:00
パートナーが呼びかけると子がそちらを向く。反応をもらえると喜びがある。
自分も呼びかけてみたが無視された。
23:30
抱っこしながら「家族は他人、じゃあどうする?」を読む。
ただでさえ近年は資本主義の荒波から距離を置きたいと思っていたが、子のケアの時間が増えたことでさらに加速している感がある。
23:50
パートナーが腱鞘炎で両手首が痛いとのこと。サポーターを調べてポチる。
1/11
15:00
義実家にいるのはこのあたりまで、と期限が決まる。
食事の準備にお風呂、洗濯などとてつもない量の仕事をやってもらっており、これを自分でできるのか自信がない。
そもそも義実家にもう1ヵ月半くらいいるので家事の感覚を忘れてしまった。ちょっとずつリハビリしていかなければ。
1/13
パートナーからLINEで子の写真が届く。数日会わないだけで顔周りの肉付きが変わっている。
あっという間に10年くらい経ちそうだな。
仕事や個人開発も面白くてついやってしまうけど、これは10年後からでも取り返せる。
今しかできないことに時間を使いたい。
昔からのアプリをアップデートした
朝起きて1本、仕事終わりに2本個人アプリを申請した。夜はそれなりの機能を作ったのでしんどい。パソコンができない日が続くと反動で無理をしてしまう。本当は1日10分取り組めればそれで良いはずなんだけど。寒い日が続くので体調を壊さないようには気をつけたい。
今日は新しいアプリではなく、これまでにリリースしていた既存アプリの機能改修をやった。基本的にアイデアを実装するのが好きなので新規開発に重心を置きがちなのだが、リリース前にAppleの審査で弾かれたりリリースできてもユーザーを獲得できなかったりすると、既存アプリを一定数のユーザーが使ってくれてることのありがたみを感じてたまに機能改修する。
久しぶりにアップデートしようとすると、まずはビルドを通すところからの戦いになる。iPhoneアプリを開発するためのエディタであるXcodeは毎年大型のアップデートが入る。古いアプリだとこの変更で動かなくなる部分がややあり、まずは変更点を理解して動かせるようにする。ビルドが通ったら次はコードリーディング。既存アプリは機能追加や変更の歴史的な経緯を引き継いでいて、開発者の自分でも思い出せない実装によく出くわす。
今回はサブスクの年額プランを既存アプリに追加してみた。月額プランと比べて2割くらい値引きがあるが、1年継続してくれると思えば十分元が取れるという発想で。課金の画面も華やかに彩っておいたので、これでアプリを応援してくれる人が増えるといいな。
「家族は他人、じゃあどうする?」を読んだ
「家族は他人、じゃあどうする?」を読んだ。最近興味をもってるケアの話が主で、竹端さんの著書は3冊目でしたがその中でも一番良かったです。
子供の増えた家族が戸惑う原因のひとつが、それまで生きてきた仕事の世界とケアの世界の違いによるもの。例えば朝保育園に向かう前に子供の機嫌を損ねてしまった際、仕事的な発想では「なんで予定通り動いてくれないんだ」「このままじゃ遅刻してしまう」と感じる。一方ケアでは「機嫌を損ねたのはなぜか?」「それを前向きにするために何ができるか?」と考える。前者は客観的な評価を、後者は本人を主体に物事を捉える違いがある。
小さい子供は自分の感情をすべて伝えることができない。しかしそれでも本人主体で話を進めることはできる。ケアをする側(ここでは親)が問いかけたり観察したりすることで、子が発するメッセージを逃さず捉えられる。それをせずに大声を出して従わせようとするのは、そうして圧でコントロールできたら自分が楽だから。そこにケアする相手への尊重はない。
面白いのが「おしりぺんぺんは許されるか?」という問い。自分としては絶対やらないだろうが、「しつけのために必要です」という人にはどういう論理で当たればいいか?本書の中では次のように紹介されていた。
子どもへの暴力を「子どものしつけのため」と説明する親であっても、自分の子供以外に暴力をふるうことはほとんどない。
(中略)
「自分の子どもであるから体罰を行使する」のなら、それは子どもの親である立場を乱用している、すなわち「親権の乱用」であると言えよう。
しつけのためと言うなら他の子供にもやるよね?それをやらないのは「家庭内のことだから」を盾に力で従わせようとしてるんじゃないの?という。親権の乱用というのが良い言葉で、昔何かのテレビで見たワンシーンを思い出した。その番組では多くの親が子供に「そこの醤油取って、はい3、2、1...」みたいなコミュニケーションをしていることを問題視されていた。こんな話し方相手が大人だったら絶対しない。つまり子供を「子供扱い」してしまうやり取りになる。親権の乱用とは直接のニュアンスは違うかもしれないが、相手を主体で考えることを放棄するという点で共通しているように感じた。
また、問題を相手に押し付けてしまう話も面白い。例えば子供が自分(父)の話を聞いてくれないとき、「そんな人の話を聞けないんじゃ社会に出たら困るぞ」というように、子供を心配しているような文脈で捉えてしまう。しかし父親の実際の心配事は「子供が自分と話してくれない」ことで、これは父親側の問題なのに子供に問題があるようにすり替えてしまっている。
このくだりは耳が痛かった。というのも会社で似たようなことをした経験がある。チャットでメッセージのやり取りをしていて、相手の発する内容がよくわからないとき、自分は「相手のテキストコミュニケーション能力を向上させなければ」という風に考えてしまった。しかし実際に困ってるのは自分で、問題を抱えているのは自分の方。正しくは「自分が理解するまでに時間がかかって困る。だから次からはこういう形式で伝えてほしい」と相手にお願いすることだった。そのお願いを正面からするのが面倒で、スキルの問題だと捉えて変な方向に話を進めてしまっていたことに今更ながら気づいた。
仕事術やマネジメントの本はよくあるが、それに染まりすぎると逆にケアの世界から離れたマインドが形成されていってしまう。資本主義・効率主義の呪いを解くべく、本書のようなケアの本を定期的に読んでいきたい。
個人開発考 2026
最近は個人開発で作るものについて色々考えている。
友人は2026年に100個のアプリを作ることを目標にしている。量が質を生むというし、こういう分かりやすい(かつ大胆な)目標は面白い。
一方自分のサービスで食べている人を見ると、多作というよりひとつのものを磨いてファンを増やしてるパターンが多い気がする。いろんなものを当ててると一人じゃ手が回らない。コアとなるサービスを作り込み、対価をもらって生活している。
自分はというと、新しいアプリを作るのもやりたいし既存アプリの改善もやりたい。一番興味があるのはデザインで、かわいいUIを作れたら楽しい。でも技術的な工夫も好きだし、マーケティングも深掘ってみたい。今だとAI活用もうまくなりたい。「自分はコレ」という軸を作ろうと自己分析をはじめるクセがあるが、今年はあえてあまりやらずに手を動かす時間を増やし、興味のままに好きにやってみようと思っている。
新卒で入った会社では「社会問題を解決」することが良いことだと染み込ませられた。仕事していく上で「数値で目標を測る」ことの大事さも知った。ビジネスマンとしては成長したが、個人で好きに作るうえでは余計な筋肉がつきすぎてるかもしれない。
好きなものを好きにつくる。それが誰かの課題を解決できると、クチコミで広がる。本当に大事なのはこれぐらい。そして好きに作ってる分には継続できる。継続していればいずれどこかの道に繋がる。それを信じてやっていく。
「虚弱に生きる」を読んだ
「虚弱に生きる」を読んだ。著者は20代だが体力は老人並みで、体力がない状態で過ごす生活がどのように見えるかを綴ったエッセイ本。これがとても面白かった。
体力がないといっても病気ではなく、いろんな診断を受けても病名はつかない。なので虚弱代表として筆を取ることには気が引けてたが、ふとしたきっかけで「虚弱界隈」という言葉が生まれ、世の中の体が強くない人たちからの共感を集めている。自分も体調に自信がない時期が長かったので(今は元気)、部分的に自分と重ねながら一気に読んだ。
体力がないと「時間」がなくなる。それはたくさん寝ないといけないし、自分のコンディションを保つための運動などに時間を割かないといけないから。運動が大事なのはみんな一緒ではあるが、著者の場合はマイナスをゼロにするために運動が必要。筋トレやストレッチをしてようやく他の人の何もしていない状態と並ぶのだ。ジムに行けたら行って、身体を仕上げるプラスの行為とは前提が異なる。
時間がないと「お金」がなくなる。週5日×8時間働くというのがそもそも難しい。著者は専業のライターで、周りから「自分の仕事で食べていけて立派」と言われるらしい。しかし本来は働きながらの兼業でもできるだけの仕事量で、それなのに専業にしないといけないくらい体力がないのだと著者はいう。本の中には実際に年収も記載されている。
虚弱エッセイを書くと寄せられるのが、中年を超えて体力が落ちた人からの共感の声。しかしそれは「全盛期」があった人の話で、最初から虚弱であった人とは事情が異なる。20-30代で元気だった人はその間に蓄えた資産がある。それは仕事のスキルであったり人間関係であったり様々だが、そういう経験が土台にある上での体力低下と同じに語ることはできない。
なので単純に自分と比べるのは失礼になるのかもしれないが、著者の方の生活の整え方はとても素敵で真似したくなる。例えば自炊を時短するために野菜を冷凍し、それをお湯で戻す味噌汁づくりを導入したがどうにもテンションがあがらない。それは「自分の身体を自分で作っている」という手応えがないからで、自炊でこの手応えを実感することが自分にとって大事なことに気づく。
最後に、後半に出てくる一節を紹介。
だから私は、体力がなくても、お金を稼げなくても、独り身でも、それなりに幸せな女になってみたい。これが現時点で考えうる限り最も報われる形である。
自分のいまの環境を見つめて向き合い、受け入れる。それを経た人にしか出せない覚悟がこの一文に表れていると思う。