『「みんなの学校」が教えてくれたこと』を読んだ
『「みんなの学校」が教えてくれたこと』を読んだ。この小学校は大阪に実際にある。そこでは障害のある子もない子も同じ教室で学び、他の小学校で厄介者扱いされていた子も毎日学校に通う。ノンフィクション映画としてもヒットしたらしい。この本はその小学校の初代校長によるもので、大人にとっても大事なことがたくさん書かれていた。
例えば新しい子が転校してくるとき。引き継ぎ情報のようなものは来るがそれを鵜呑みにはしない。それはあくまで前の学校の見立てだとし、先入観なくその子供を自分たちでよく見る。何か問題があったらそれにどう対応すべきか教員みんなで話し合う。大空小学校にはルールはなく、校則は「自分がされていやなことは人にしない」という一つだけ。なので「ルールだから」という呪文は使えず、大人も子供も自分たちで考えて作っていかないといけない。
子供がこの唯一の校則を破ったとき、校長室に来てやりなおしの時間を持つ。やりなおしとは校長先生と話して自分なりにその出来事を理解すること。例えばケンカをして相手を叩いてしまったとする。そうしたら「なんで叩いたの?」「どういう気持ちになった?」「なんで怒ってるの?」などと聞いて自分の感情を振り返る対話が始まる。大事なのは先生側が最後に「よくわかったね。次からはもうしないように」などと言わないこと。この一言があると主従関係が見えてしまう。子供がただ学び、大人はその補助をするくらいでちょうどいい。
学校の授業中は静かに話を聞くのが良い行動とされているが、大空小学校では突然大きな声を出したり学校を脱走したりする子がいる。その子たちは周りの子がそれに過剰に反応するとますます落ち着かない気分になってしまう。大空小ではそんなことがあっても子供達は勉強を続ける。それは例外を無視しているのではなく、「いろんな人がいる」を地でいっているから。大人がいる場なら大変なことにはならないし、大人がいなかったら自分たちで出来ることをしつつ先生を呼びにいく。それは信頼関係ゆえのものだが、これは子供の声を全身全霊で聴いてきた時間によって成り立っている。
後半は著者の方がこういう学校を作りたいと思うようになるまでの経緯が書かれている。教育実習で会った、先生がいなくても自律的に動ける子供たち。実習最後の日のお別れ会を子供たちだけで企画してくれたらしい。水泳の成果をあげようと運動ができる子ばかりをトレーニングしていたら、「底をあげないと後につながらない」と言われたとき。できない人を育てることが結果としてピラミッドの頂を伸ばすことに繋がる。いろんな経験が大空小学校につながっている。
最近は仕事でも「俺についてこい」タイプではなく、よく話を聞くタイプのリーダーシップが求められている。自律的に動けるチームは強い。そのためには一人一人を信じ、話を前傾姿勢で聴く態度がまず必要だ。そして正解を決めつけないこと。正解があるような雰囲気では「正解じゃない」とされる側はどんどん発言しにくくなってしまう。突飛な発言や行動があっても否定しない。そういう雰囲気が大人の社会にもあればもっと生きやすくなる。
iPhoneのない生活
昨日の夜、飲み会の予定があったので家を出たら駅に向かう途中で「SIMがありません」とスマホに表示されるようになった。見てみるとモバイルデータ通信ができずインターネットに繋げない。アンテナのマークも0本になっており本体を再起動しても直らない。しかし家に引き返しては時間に間に合わないのでそのまま向かう。駅で拾えたWi-FiやGoogle Mapsで調べたときの記憶を頼りになんとか現地に着いたが、スマホに頼れない時間はとても心細かった。
飲み会が終わった帰り道はなぜか復活していたので油断していたが、今日見てみるとまた「SIMがありません」。調べてみるとSIMの接触が悪い場合があるとのことだったので、スマホの横にあるSIMトレーを開封して汚れを取ったりしたがダメ。今日は仕事後にカフェに行っていたが、スマホがないと連絡が取れず音楽が聴けず、パソコンをテザリング(携帯のネットワークでパソコンをネットに繋ぐこと)もできずで非常に不便。失って分かるものがある、というのを実感した。
しかしiPhoneが使えないのは良い面もあり、暇つぶしにネットサーフィンしたりXを見たりができない。そうなるとノートとペンで時間を潰したり、本を読んだりしか基本やれることがない。緊急時の連絡ができないのはリスクだが、そのレアケースを除けば実は今の状態の方が幸福度は高いのかもしれない。最近はiPhoneを寝室に持ち込まないようにしたり、iPhoneの拡張機能を使ってスマホではXを開けないようにとデジタルデバイスから遠ざかる工夫をしている。その行き着く先にはiPhoneを持たない生活もある気もしているが、ふとした時に写真を撮ったり、エンジニアなので自分の作ったアプリの動作確認をしたりと絶対に必要な場面もあって難しい。しかし今回のことで改めて「つながらない権利」を考えることになった。飛行機の中の過ごし方のように、制約があるからこそその時間を楽しめる。
調べてみると、SIMの再発行はキャリアのサイトから簡単にできるらしい。今は物理SIMを使っているがこれを機にeSIMに変えてみようとしている。家に届くのを待つ必要がなく、手続きは1時間くらいで完結するようでうれしい。便利さを享受したいのか抗いたいのか、気持ちがいまいち定まらない。
プロダクトマネージャーの飲み会に行ってきた
プロダクトマネージャーの飲み会に行ってきた。関西に住む6人で仕事終わりに。Web業界の会社は東京に集中しているので関西の会は珍しい。自分は厳密には元・プロダクトマネージャーだが、以前からのよしみで参加させてもらった。
話のテーマは仕事の話半分、プライベートの話半分という感じ。おいしいご飯とお酒を飲みながらワイワイ話した。仕事の話もプロダクトの話も好きだが、そもそもこうして楽しく何人かで喋る場が好きだったりもする。社会人になりたての頃は先輩ばかりでうまく話せず苦手意識があったが、最近は年上でも年下でも関係なくフラットに喋れるようになってきた。冗談を言ってみんなで笑ったりするのが自分が元々好きなこと。リモートワークやコロナで遠ざかってしまっていたが。
仕事の話でも、これは現役の頃に聞きたかった!という内容がたくさんあった。自分が当時悩んでいたことの答えがふとした時に手元に転がる。「3年前に聞きたかったです」と言ったら「3年前は僕も知らなかった」と返される。自分より知識がある人を目の前にするとあらかじめそうであったような気がするが、時間の流れはみんな一緒。自分が学ぶのと同じようにみんなも現場で学んでいる。
AIの話がそこまで出ないのも自分的には楽しかった。AIで仕事が奪われるとか、キャッチーな話はいくらでもあるがそれは不確実性の高い未来で本当のところは誰にもわからない。そんな話よりもイマの話をしたい。仕事の何が大変とか、何を大事にしてるとか、家族とはどう付き合ってるかとか、何をしてる時が楽しいかとか。リモートワークをしてるとこういう話をする時はほとんどない。効率的に働くこととは関係なく、ただ自分や相手のことを話す時間が私たちには必要に感じている。
資本主義と多様性の狭間で
人はそもそも多様で、特徴や性質は全員異なる。自分らしい部分を最大限伸ばして生き生きとできるのが豊かな社会。しかし資本主義が作ってきた構造や雰囲気はこれと反する部分も多い。
資本主義は競争がベースになっており、他社より、他人よりも優れた成果を出す必要がある。競争相手よりも一歩でも先に進められれば有利に進み、評価される。その結果効率性や能率性を高めることが重要視され、そのためにスキルを身につけたりハックしたりする方法が生み出されてきた。
働くスタッフが競争のための道具となるとき、一人一人の個性はどうでもよくなる。例えばパフォーマンスの低い社員がいたとして、その人がなぜ成果をあげられないんだろう?と対話するのではなく、「どこの会社にも活躍できない社員はいるから気にしないでOK、それよりエース人材の待遇をあげてもっと働いてもらおう」と考えてしまう。実際は他の会社の状況は関係なく、自分の会社の社員が働きやすい環境を作れるかどうかの問題。しかし競争が前提なのでそういう(事業的に)些細な問題は軽視し、もっと売上や事業成長に効く要素だけがフォーカスされてしまう。
会社の社長自身も悪意はなく、むしろ純粋に自分の会社を成長させるという役割に準じている。それはどこから来るかというと競争社会、自己責任論、自分は頑張ってそれを乗り越えたというバイアスなどに由来する。弱者に寄り添いサポートができるチームが素晴らしいと思うが、実際にそういうチームが市場で勝つとは限らないのが難しいところ。
社会人だからできて当然という見方もあるが、それも人によって程度がある。大人になっても遅刻を繰り返してしまう人はいる。大人でも子供でも変わらず対等に対話できる状態でありたい。
かくいう自分も高校・大学とストレートで進み、それなりに知名度のある会社に新卒で入って働いていた。過ごしてきた時間を肯定したいという思いもあり、つい自分のやってきたことや選択をポジティブなものとして語ってしまう。実際は経験することは人それぞれだし、その経験から何を学び取るかも違う。その人に寄り添うには対話しかなく、「この人には話してもいいな」と信頼関係を築くことからすべては始まる。
「成長疲労社会への処方箋」を読んだ
「成長疲労社会への処方箋」を読んだ。資本主義のベースには競争があり、競争社会では人々が「もっともっと」と上を目指していく暗黙のルールがある。メンタルを崩す人や過労死はその成長社会の反動として現れている。最近は競争や生産性とは違う軸で物事を見たいなという思いがあり本書もその一環で手に取った。これがとても面白くて一気に読み終わった。
現代は能力主義だが、現代の指す「能力」はとても狭義で、効率や生産性などの向上、つまり効果的にお金を生み出すスキルを指すようになっている。本来人が持つ能力は多種多様、それぞれの人がもつ想像性や創造性が発揮されるだけで十分素晴らしい。それがひとつやふたつの軸に無理やり押し込まれて評価される。客観的な評価にするには定量的じゃないといけない。なので定量で表現できない部分はなかったことにされてしまう。その結果本来違う特徴をもつ人々が同じような人間に整形されて歪みが出る。
次に成長についてだが、これは自分にとって一番面白かった章。何か辛いことがあると最初はそれに苦しむことになる。痛みが大きい間はひたすら治癒するしかないが、ある程度回復してくるとその痛みを自分のギフトだと捉えられるようになる。つまりその体験の表面にあるネガティブな要素だけじゃなく、ポジティブな面を見つけてそれを自分の経験だと思えるようになる。R-指定もラップスタア誕生の中で同じようなことを言っていた。ここまではそれなりに聞く話かなと思う。
面白いのがここからで、そうやって自分の痛みや苦痛を背負えるようになったとき、他の人たちも同じようにまた違う痛みを背負っていることに気づけるようになるらしい。さらに進むとコミュニティや同世代など広い範囲でそれが想像できるようになる。こうして自分→他人→共同体や時代 と自分が引き受ける痛みが変わっていくことが人間の本質的な成長という。確かに自分も以前メンタルを崩して会社を休んでいたが、それ以降は人のしんどい気持ちがよく分かるようになったと思う。「成長」と聞くと「〇〇ができるようになった」という能力的な話が浮かぶが、そうではなく引き受けられる痛みの範囲が大きくなる = 成長という考え方は面白い。
最後に、そんな成長主義・能力主義の現代への抗い方について。私たちは潜在的に「早く」「効率的に」物事を進めることが素晴らしいと刷り込まれていて、これは自分が自分に課してしまうことなので逃れにくい。それならば逆説的に、あえて時間がかかるようなことに腰を据えて取り組むことが処方箋になり得る。それは例えば植物を育てるとか、日記を書くとか、じっくり絵を描くとか、編み物をするとか。「何に役立つのか」という考えから離れ、ゆっくりと時間をかけて何かに取り組むことで少しずつ自分の時間感覚を取り戻していける。
体がウィルスの免疫を作るように、私たちは溢れる情報や時間の過剰な流れについて免疫を高めていかないといけない。仕事とはまったく関係ない、好きな活動をして寛いでいる時間が1日にどれだけあるのか。そういう感覚に自覚的になっていきたい。