共用エリアを綺麗に保つ
『集まる場所が必要だ――孤立を防ぎ、暮らしを守る「開かれた場」の社会学』を読んだ。図書館などのインフラが街に与える影響について書かれた本で、なかなか興味深かった。
一番面白かったのは「荒廃するマンションとそうでないマンションの違い」。アメリカのとある治安の悪いエリアで、新しくマンションが建つことになった。このマンションは人気ですぐに全戸が埋まったが、やがて敷地内で窓が割られたり、薬物の取引がされたりするようになり危険なエリアとなっていく。住民たちは逃げるように引っ越し始め、マンションに空き部屋が増え、人が減ることでさらに治安が悪くなる。
ここで「やっぱ治安悪いエリアって難しいよね」となるのは思考停止で、実はその隣に立つマンションはとてもうまくいっており、住民たちは満足して暮らしている。マンション内の治安も良い。その違いは何かというと、ズバリ「共用エリアが綺麗に保たれているかどうか」。どちらのマンションでも住民たちは自分の部屋など、明らかに自分のエリアだとわかる範囲についてはきちんと手入れしていた。違うのは共用部分の廊下やロビーの扱い。うまくいっているマンションは住民全員の顔がわかる程度に小さく、そのためみな責任感をもって管理していた。新築のマンションは住戸数が多くて見知らぬ人の行き交いが多かったため、当事者意識が薄れて誰も共用部分をメンテせず、そこから乱れていったという。
日本のマンションでも小さければ自治の範囲だが、大きくなってくるとマンションの管理人さんが必要になる。住民全員が話し合って決めることが難しいと誰かが指揮をとる必要が出てくる。会社でも同じで、小さい組織のときはそれほど考えなくても上手く回っていたのが、組織が大きくなってくるとちゃんとしたルールが必要になる。誰もが働きやすい環境を望んでいるはずで、放っておけば各自が勝手に改善する。しかし組織が大きくなると当事者意識を持てない領域も出てきて、そういった場所ではルール・ポリシーや、こぼれたボールを拾ってくれる人が必要になる。
もうひとつ、街の施設の話。食品雑貨店やレストラン、カフェ、本屋などがある街では治安が保たれやすいらしい。著者いわくこういった施設は「街を消極的に監視する」。人を家から外に出す役割を担い、そこで地域への接点が生まれる。普段家にひきこもって仕事してる反動か、最近はこういった地域コミュニティに興味がある。孤立せずにゆるくつながれる社会に一票を投じたい。
Official髭男dismのライブに行った
ヒゲダンのライブに行ってきた。会場は名古屋。Rejoiceというアルバムが最近出て、そのツアーライブが全国5ヵ所で開催されている。音楽のライブ自体これまで数回しか行ったことがなく、ヒゲダンを見るのは初。期待と不安が入り混じりながら参加してきた。
不安から書くと、ある時から大きな音や光が苦手になり、普段はそういう場所を避けて生活している。音楽ライブは大音量を楽しんでナンボの場所で、ステージの演出としても光が瞬くようなものも多い。ステージからかなり離れた席なら大丈夫なのでたまにフェスに行くときは後方から観るようにしてるのだが、今回は座席チケット制でかなり前の方が当たってしまった。ほとんどの人にとって喜ばしいことだと思うが心境は複雑で、自分のコンディションで最後まで楽しめるのか、こんな自分が良い席で見てよいのかなど色々考えてしまっていた。
結論からいうと大変楽しめまして、あっという間に2時間少々が経過。座席は予想通りかなりステージに近かったが、そのブロックの一番後方かつ列の端の席で、周りのスペースに余裕がある & 出ようと思えばいつでも会場を出られる環境だったのがデカかった(こういう場所だと気が楽)。また会場では音を和らげるイヤーマフが配布されていた。大人に比べて敏感な子供の耳を守るための配布に見受けられたが、その列に混じって大人の私もゲット。大音量に身体が慣れるまではつけて、少しずつ環境に順応していけたのも体にはよかった。
Rejoiceのアルバム曲は結構予習していったので、最近聴き始めたにわかファンの自分もほぼすべての曲でアガれた。私はアーティスト問わず激しい曲よりゆったりしたバラード調の曲が好きなのだが、ライブでは手を叩いたり一体となって盛り上がれる曲の方が好まれている気がする。バラード曲はそんなに盛り上がるポイントがあるわけじゃないし、自分の好きな曲がライブで演奏されてその曲をもっと好きになった!みたいな経験はこれまでなかった。しかしヒゲダンはゆったりした曲でも展開があり、サビでは声を張り上げ、なんというかどの曲もライブ映えした。ボーカルのさとっちゃんが「僕たちはライブが本当に好きで、曲を作ってるときもこれをライブ歌ったらどんな感じになるか考えている」的なことを言っていて勝手に納得。どの曲もより好きになった。
個人的なハイライトはSubtitleで、曲に入る前のMCでSubtitleの成り立ちが話された。「大切な人が困っているとき、助けてあげたいけど自分ではどうしようもないことがある。仲間や友人が悲しみに打ちひしがれてるのに自分は無力、そんな心情を描いた歌」。このMCの後にSubtitleを聴くと確かにすべての歌詞がそう感じる。友達が傷ついてるとき、無理に良い雰囲気にしようとポジティブに振る舞いすぎて変な感じになったり、相手を救える言葉を言ってあげたいけど適切なものが見当たらなくて辛かったり、そういうのって人生やってるとありますよね。2番の歌詞に「イルミネーションみたいな不特定多数じゃなくてただ君に届いてほしい」的な歌詞があり、良いものと表現されがちなイルミネーションが比較級の下側に置かれていて面白いなと思っていたが、これも「正しさより優しさが欲しい」。世の中では不正解とされても目の前のあなたを救う言葉を言いたい、そういう文脈で聴くとより深みがある。ヒゲダンの歌詞はどの曲もめっちゃ難解だが、その中ではSubtitleは意味を理解できているほうだと思っていたのでさらなる扉が開いて驚かされた。
その日の会場は1万2千人が来場していたらしい。ひとりの人間が考えた曲や歌詞を1万2千人が一緒に歌う。手を挙げたり体を動かしたり歌ったり、各々が好きに音楽を楽しんでいる空間にいれて、とても良い時間でした。
自分で決めたことならミスっても学びになる
何かに取り組むとき、それをやらされるのと自分で納得してやるのとでは結果の受け取り方が違う。自分で腹落ちしてやったことなら、仮に失敗してもなぜ失敗したのかを分析して次に活かすことができる。納得しないまま進めた場合、うまくいかなかったら他責に収束してしまう。
モチベーションには内発的動機と外発的動機がある。内発的動機は自分の内から込み上げるもので、外発的動機は外から与えられるもの。内発的動機の方が持続力が高い。よくある例え話で、昔公園から隣の民家に石を投げ、窓を割って遊ぶ少年たちがいた。注意してもやめない。これは石を投げる行為が本人たちにとって楽しいから。そこで、注意をするのはやめて石を投げる好意を褒め、感謝を伝えて1日100円あげるようにする。少年たちはよろこんで石を投げ続ける。ある日、金額を50円に下げる。少年たちは不満をいいながら石を投げる。そしてある日、今日からはお金は渡せないと言う。子供達は石を投げるのをやめる。「なぜ無料でこんなことやらないといけないのか」と言って。
これは元々自分たちの内発的動機ではじめたものが、外発的動機にすり替わってしまう例だ。外発的動機は長続きしにくい。内発的動機は自分の根源から沸き上がるものなので強い。私たちにできることは、他人が燃えているときに誤った動機づけをしてしまわないことだ。同じく、自分のモチベーションがすり替わらないようにも注意が必要。ただ最初は便利なものを作っているのが楽しかったのに、売上ばかりを求めたり、それを自分が有名になる手段に使ったりしては本来の動機が失われる。お金や名誉を否定するわけではなく、自分が心から納得できるならよいが、気付かぬうちに周りに流されるのは危険、という話。
自分で決めたことなら間違っても、数年後には笑い話になる。誰かに決めてもらうと上手くいっても記憶に残らない。自信がなくてもよく考え、自分で選んでいくクセを身につけたい。
ワーケーションに行った
長野県と山梨県の境目あたりでワーケーションしてきた。2泊3日。なかなか良い時間を過ごせた。
ワーケーションはワークとバケーションを合わせた言葉で、和製英語と思いきや英語圏でも使われる表現らしい。普段はフルリモートで家から仕事していて快適ではあるが、人との会話に飢えるときがある。そういうときは出社もいいなと思うが、混雑している電車を見たり雨が降ってたりするとフルリモートでよかったと心から思うこともあり定まらない。何も毎日話さなくてもよくて、でもたまには喋りたい。というわけでワーケーションである。
数年前に6人で行ったときはAirbnbでコテージ的なところに泊まったが、今回は人数も少ないのもあり普通の旅館で各自部屋をとるスタイルになった。部屋で各々仕事したり、集まれるときはロビーで一緒に仕事したり。ランチにどのお店に行くかという相談が懐かしい。技術的な話やなんでもない話を気兼ねなくできる時間は貴重で、とても気持ちが満たされた。
ZoomやGoogle Meetのオンライン会議でも雑談はできるが、体験としては少し違う。仕事的な話をする分には効率的で良いが、雑談はなんだか盛り上がりにくい。相手の状況がわからない、いつまでも話せてしまうのでどこかで切り上げないといけないなどの意識が早めに切り上げる方向で調整してしまう。3人以上となると喋りづらさは格段に上がり、人数が増えると聞き専の人が増える。私はみんなでワイワイ話したい派だし、誰かが話すときも相槌打ったりしたいのでオンラインの雑談には限界を感じる。ボディランゲージが制限される、音声で割って入りにくいという技術的な制約によるものが大きいと思うのでいつか解決されるかもしれない。Apple Vision Proがその解決策かと思って試したが、あまり満足いける体験ではなかった(単純に頭が重くて長時間つけられない)。
近くに住む同僚と合流して一緒にご飯を食べたり、早朝に起きて温泉と散歩を楽しんでから仕事をしたり、良い時間がたくさんあった。夜は一緒に個人開発もした。とある新サービスを作ってるのだが、そのお互いの作業のドッキングというか、それぞれ進めていた領域が重なる部分を一緒にやった。こういうのは対面で会話しながらの方が進めやすいし楽しい。うまく動いたときに一緒の空間で喜ぶ。こういうものづくりの根源的な喜びは大事にしたい。
普通のことを続けるのは難しい
社会人になりたての頃シェアハウスをしていて、東京に友人6人と住んでいた。そのなかの一人と夜ご飯を食べているとき、「普通のことを続けられる人は一握り」という話になった。朝元気に挨拶する、横柄な態度を取らない、分からないことがあったら人に聞くなどは誰でもできる。しかしこれをずっと続けらる人は実は少ない、みたいな話。
前職のヤフーで働いていたとき、当時の社長が「毎日1%成長していけば1年後には37.8倍になる」と言っていた。その日だけ見たら前日と変わらないように見えるけど、積み上げていけば良い意味で雪だるま式に増えていく。同期には明らかに優秀で才能に溢れた人たちがいて、その人たちのような特技はないけど、まぁ毎日挨拶したりちょっとずつ勉強するとかは自分にもできるかな、と思った記憶がある。
あれから10年ちょっと経ったが、いまでも好奇心には素直でいられている。自分の分からないことを腐すのではなく、純粋に学びたいと思える。Web業界はトレンドの移り変わりが激しいとよく言われるが、それは自分にとってはポジティブな要素。新しいことを学ぶのはいつでも楽しい。ただ、年齢的なところでいうと若いときの方が吸収力は一般的に高い。新しい技術をよーいドンで学ぶような状況では、新卒で入ってくるメンバーとパフォーマンス的に同じか劣るようなシーンもある。良くも悪くもメンタルは落ち着いてきていて、当時のようにがむしゃらに汚いコードを書きまくって体で覚える、みたいな時間は減ってきている。
対人スキルは技術に比べて積み上げの性質が強く、これまでの経験を活かしやすい。そうなるとマネージャーなどの職につくと良い気もする。人と話すのは好きだし周りが働きやすい環境をつくるのにも興味はあるが、私の一番好きなサービスをゴリゴリ作る部分からは離れてしまうので寂しい。昨今ではAIの進化が著しく、勉強するのにもプログラミングするのにも知の高速道路感がある。かつて複数人いないと難しかったものが1人でできるようになる。自分の疑問にピンポイントで答えてもらうこともできる。ただし検算は必要で、それで合っているのかどうかを見極められるだけのスキルは自分に必要。技術の幅をあげておくと良いことがあると信じて、気になる知識を勉強している。