ユーザーインタフェースの発明

2025/01/07

ユーザーインタフェース(UI)とはユーザーがサービスを利用する際の接点のことで、デバイスやWebサービスのレイアウト、ボタンの外観などのことを指す。Webサービスを作る際にはUIは重要だ。それがボタンだと分かるようにデザインすることでクリックできることをユーザーに伝えられる。赤文字にしてゴミ箱アイコンを添えることで危険な処理なので慎重に行ってほしいことを伝えられる。

例えばパソコン上の「フォルダ」は、実際のデータ構造がそうなっているわけではなく、ユーザーが概念を理解しやすいように現実を真似て表現されている。私たちは見慣れたものだと安心し、その使い方を自然と理解できる。iPhoneが登場した当初、現実世界の要素を画面上に落とし込むスキューモフィズムというデザインが流行っていた。これはまだアプリという概念が浸透しきってない時代に、その用途や目的を現実になぞらえて伝えるためだったといわれている。

素晴らしいUIが考案され、それが真似されてスタンダードになるという流れがある。例えはページの末端までいくと次が読み込まれるオートページング。次のページに進むボタンを主体的に押すのは面倒くさいが、自動で読み込まれたら受け身的に読み続けてしまう。人間心理を突いたこのUIは滞在時間を多いに高め、いろんなサービスがこぞって真似をした。Netflixの番組でこのUIを最初に作った人にインタビューするシーンがある。彼は人の時間を奪いすぎるUIを作ってしまったと反省していた。滞在時間を伸ばすのはサービス事業者にとっては目指すところであり、ユーザー個々人の時間を奪うと分かっていてもやり続けてしまう負の側面がある。

スマホアプリでニュースなどを見ているとき、画面を下に引っ張ると最新の投稿を取得できるPull to RefreshというUIがある。Twitterのクライアントアプリが最初に実装したものだと記憶している。Twitterでは投稿が縦に並び、上にあるものほど最新の内容になっている(当時は完全に時系列だった)。画面を下に引っ張ることで、さらに上にあるもの(=最新のもの)を取得するというのは概念として理解しやすい。また、最新の情報が欲しいときはあるが、タイムラインを見ている間は基本的に不要な要素である。更新ボタンをベタで置いてしまうとその分スペースが必要になり、画面が小さいスマホでは邪魔に感じてしまう。必要なときだけ必要な場所に現れるPull to Refreshは素晴らしく、その後Appleの標準のUIとなり各サービスで実装されるようになっていく。

メルカリを開くと商品が横3列のグリッドで並び、たくさんの商品が揃っていることがユーザーに伝わる。商品名はなく、写真と価格だけが並ぶ。商品名を表示するとそこで工夫して目立とうとする力学が生まれる。例えば「2/1まで値下げ中!」のような表記をしたくなる。これをやり始めるとゴチャゴチャして見るのに疲れるし、売るのにテクニックが必要と感じると初見が近寄りがたくなってしまう。メルカリとしては多くの人に売り買いに参加してほしい。メルカリ側が用意しているキャンペーンバナーも意図的に質素にしている。もちろんメルカリのデザイナーであればエレガントなデザインで作ることもできるが、それをやるとユーザーが撮った商品写真をそこに並べるのが申し訳なくなり出品のハードルになる。目指したい売り場の雰囲気があり、それに沿ったUIが考えられている。


相手を勝たせる

2025/01/06

降伏論」という本を読んだが、その中の「相手を勝たせる」という章が面白かった。

相手を上げたい場合、私たちはつい「〇〇さんすごいですね。自分なんか××で、〇〇さんみたいにできないです」というように言ってしまう。これは一見相手を褒めているが、実際は自分を下げることで相対的に相手が上がっている。そうではなく、誰も下げずに相手だけを上げる。

「自分ばかり話してしまいました、すみません」ではなく、「〇〇さんの話を聞く姿勢が良すぎてつい話しすぎてしまいました。ありがとうございます」と伝える。これは自分はそのままに相手だけを上げている。こういうコミュニケーションをしたい。

自信は良いが傲慢はウザい。謙遜は良いが卑屈は見てられない。自分を下げたコミュニケーションは、褒められたとしても良い気分にはならない。「いや、そんなことないですよ…」と相手をフォローせねばという気持ちでほとんどになる。

相手を上げるよりも「すみません」と自分を下げてしまう方が簡単にできる。しかし相手にストレートに上げたいときは「すみません」よりも「ありがとう」。相手を勝たせることを常に意識したい。


意見の作り方、好奇心の作り方

2025/01/05

自分の意見や感想を伝えるのは難しい。思っていること、感じていることを言語化するのには練習が必要。そのためには本や作品のレビューなど誰かが書いたものに触れ、自分の感情にしっくりくるものを探していく。それを繰り返すと自分の感情はこう言語化できるんだというピースが集まる。ピースがたくさんあると自分の感情をストレートに人に伝えられるようになる。

好奇心はその逆で、人が本来備えている。子供の頃は外を探検したり絵を描いたりと好奇心のままに行動する。それが危険なものを避けたり、社会的規範を身につけたりするうちに行動は狭まる。同じ失敗を二度しないように注意深くなるのはよいが、やりすぎると自分の本来の気持ちを封印することになる。その職業で食べていけるのか、どうすれば安定した生活が送れるのか、頭で考えることと好奇心に従うことはベクトルが異なる。好奇心を妨げるものに自覚的になること。自分の好奇心にフタをしているものが何なのかを理解し、それは本当に必要かを考える。絡みついたものを剥ぎ取れば好奇心は自然と生き返る。

社会で調和を重んじていると思っても言えない言葉がある。空気を悪くするとか、自分固有の拘りだから言うまでもないかなとか。それでも浮かんだその言葉は自分自身のもの。人に言えないことは紙に書く。周りの反応が怖くても自分がそう感じたことは真実。書き留めておけば風化させずにすむ。

最近、辻村深月さんのエッセイ「あなたの言葉を」を読んだ。小学生に向けて語りかける構成で、あの頃のモヤモヤをきれいに言語化してくれる。子供の頃は人に優しくしたくても上手くできなかった。真っ直ぐそれをやると友達にからかわれてしまいそうで、周りに合わせることを重視して自分を曲げていた。内心をそのまま出力できるようになったのは最近のこと。子供には子供の社会があったのだなと読みながら思い出した。誰かが困っているときに言葉の力は助けになる。気持ちに合った表現ができるように、ピッタリの言葉を集めていきたい。


記憶はその土地に結びつく

2025/01/04

年末年始で実家に帰っていたが、その間は子供の頃のことをよく思い出した。家族とそういう話をしたからではなく、懐かしいモノや景色に触れて記憶が想起された感じ。納戸に閉まわれた将棋盤を取り出して甥っ子と遊んだ。子供の頃将棋教室に通っていた時期があり、町で行われた大会に出たこともある。全然上手くはないが準優勝した。小さい町だったので参加者が8人とかで、さらにレベルが低すぎて相手が二歩(同じ列に二つ歩を置く反則)で負けていったりしていた。子供だったのでそれでも嬉しくてしばらくテンションの高い日々を過ごしていたが、次に進んだ地域大会の一回戦でボロ負けして将棋人生のピークを終えた。

中学の頃、美術の授業で「音楽を聴いてそれを絵にする」というものがあり、最初に曲が流されてみんな各々の絵を描き始めた。お絵かきは好きだったので一生懸命描いていたら、先生が自分の絵をじっと見て「本当にちゃんと曲聴いてた?」と言った。これは大変ショックで、家に持ち帰り母にゼロから描き直してもらってそれを提出した。今思い返してもあれは教育ではない。この時からしばらくの間絵が嫌いになった。

英語の担当だった先生は「Last Christmas」の曲を英語で全部歌えたら成績に加点します、という企画をやっていた。この企画のおかげで今でもLast Christmasだけ英語で口ずさめる。クリスマスシーズンにこの曲がかかると気づいたら歌っていて、いつもこの先生のことを思い出す。歌でいうと音楽の先生もユニークで、教科書とはまったく関係なく先生が独自に集めた6曲くらいの楽譜をファイルに綴じて配り、そこから各自一つ選んで先生の前で歌うテスト形式だった。その歌は今でも歌えるし、その先生は音楽が好きなんだろうなと思っていた。

近所を軽く散歩したが、田んぼに囲まれた風景はあまり変わってない。次々と変化が起きる東京は異常値で、ほとんどの生活は緩やかに変化していく。いまは地方都市に住んでいるのでその中間くらいだろうか。地に足をつけ、本当に必要なものを作ってコツコツ生きていきたい。


石橋を叩きすぎない

2025/01/03

仮説行動―マップ・ループ・リープで学びを最大化し、大胆な未来を実現する」を読んだ。仮説思考という言葉を近年よく聞く。闇雲に動くのではなくまず仮説を立て、それを検証していく動きのことだ。著者はその仮説思考に加えて「行動」の重要性を説く。良い判断をするためには良い情報が必要。その情報は検索ではなく行動によって手に入れることができる。

何か判断する時、私たちはリスクを考える。失敗すると痛い、確実度の低い道は怖い。リスクは極力避けたくなるのが人間の本来だが、それを試さないことで失っているものが実はある。昔WWDCというAppleが主催するカンファレンスに出張で参加したことがある。会場はアメリカなので交通費も宿代も高い。カンファレンスの内容はインターネットでも公開されるので、わざわざ高いお金を払って行く必要はないように思える。でも世界中から自分と同じ開発者が集まってきていて、エンジニアじゃないと意味がわからないくらい小さな発表に熱狂的に拍手する。そういう空間で時間を過ごしたことは経験として大きい。

エンジニアには勉強会という文化があり、会社や個人がスペースを借りてお互いのノウハウを発表し合う会がよく開催される。業務外の時間に開催されているものなので参加する義務はもちろんない。ただそこで緊張しながら発表したり、他社のいろんな価値観のエンジニアと交流したことは確実に自分の糧になっている。勉強会に参加する時間はプライベートだし、発表することには炎上リスクもある。しかし参加したことで得られたものはリスクより遥かに大きい。

リスクと直面したときどう考えるか?それにより自分が失うものを考える。お金、時間、人との繋がり。それが許容できる損失であれば試してみれば良い。失敗を恐れるあまりリスクを過大に評価している場合がある。一度計算の脳を経由することで何が怖いのかを明確化でき、挑戦する勇気を持てる。

そう考えると個人開発のリスクはほとんどない。自分ひとりで、もしくは気心知れた友人と作る分にはお金のロスはなくてあるのは時間のロスだけ。しかしそれも技術の勉強が楽しかったり、ものづくりそのものが楽しいのであればロスとは言わなそうだ。変なものを作って社会的信用を失う?倫理規範を逸脱してなければそんなこともまぁないだろう。そしてリターンとしては金銭面や自由な働き方が得られる可能性がある。ただ誰でも手軽にというわけではなく、毎日コツコツと続ける必要がある。それは心から好きじゃないと辛いことだと思うので、良いライフワークと出会えたことに感謝である。