AI時代のコンテンツの価値
疑問や質問はAIに聞くことが増え、Google検索する回数が少なくなっている。人間が調べるときはキーワードを入れて検索し、結果の中からそれらしいサイトをいくつかピックアップして読み、内容を読み比べながらまとめて理解する。ChatGPTの検索モードなどはまさにこういったことをしており、人間が調べるよりも高速なので使い道が広い。
仕事でWebサイトに表示するテキストや画像を管理するサービスを作っているが、AI時代にはどうなるのか。Webメディア単体で事業をする場合、検索などから辿り着いてもらってページビュー数をあげ、そこで広告や会員料などで収益化するモデルが多い。検索回数が減るとこのサイクルが回りにくくなり、Webメディアの数は一見減るように思われる。しかしAIが最新の世の中の情報をどこから学ぶかというと、それは人間の用意したコンテンツからである。何かを調査した結果、個人の意見、業界の動向などは人間がまとめることで始めてAIが学習できる。出面がWebページではなくAIになるかもしれないが、変わらず一次情報としてのコンテンツは強い。
次に、AIが十分に浸透した時代を考える。ひとりずつにAIエージェントがつき、困ったらサポートを受けられるような時代。仕事やプライベートの面倒な作業はAIに指示してやっておいてもらえると、人が自由に使える時間が増える。時間が余ったときに何をするかといえば、それは「表現」ではないだろうか。自分の思いや体験を文字で書いたり絵に描いたり写真に撮ったり、あるいは人に話したりする。それをインターネットに置いておきたい時もあるだろう。コンテンツは人の求めるものを置く場所から、より個人的な情報がある場所になっていく。
ベクトルではなくスカラーの大きさが人生を豊かにする
良いことでも悪いことでも振幅が大きい方が人生が豊かになる。いつも通りの日常も平穏で素晴らしいが、新しい趣味を始めたり未経験のことにチャレンジするのは素晴らしい。その結果思うようにいかなかったり、挫折したりすることもあるがそれも味。その時はネガティブな経験だったとしても後の人生で伏線回収できる機会がある。生存者バイアスがかかってる気もするが現時点ではそう思う。
成功した起業家の行動パターンを分析した本「エフェクチュエーション」で、失敗時にかかるお金や時間の許容度をあらかじめ定めておくという章がある。もし最大の失敗をしたらどうなるか?自分はそれを受け入れられるか?失敗は怖いが、実際のダメージを計測することで正しくリスクを管理できる。リスクを取らず何もチャレンジしないこともまた機会損失というリスクになっている。動かない場合のリスクは評価しづらいが、例えばWebサービスだとトレンドについていかないと陳腐化して競合に負けるなどがある。自分はコロナ禍やリモートワークにより"静"がデフォルトになっている感があるので意識的に動く機会を探す必要がある。
新しい場所に行く、新しい人と会う、新しいことを始める、新しいジャンルを学ぶ。前職の同僚が飲み会で「お金より色々な経験をすることに重きを置いている」と言っていたが、実際彼は数年後会社を辞めてデンマークに留学していて驚いた。ここまでは行かずとも多少は自分にも取り入れたい。
Webサービスの行き止まりをなくす
このブログにちょっと手を入れて前後のポストへのリンクが表示されるようにした。Webサービスを作っているとこういう回遊を生む構造について考えることがある。そこで立ち止まらせず、次のアクションに繋がる何かを用意する。
そのサービス過ごしてもらう時間を長くすることが事業のキーポイントの一つとされる。例えばネットショッピングでは商品を見てもらうほど購入される可能性はあがるだろうし、SNSならもっと直接的に広告の表示回数が収益になる。可処分時間の奪い合いの時代とも言われる。余暇の時間をどう自分のサービスで過ごしてもらうか?消費者向けサービスではこの観点が重要視される。
ネットショッピングをしていて、何か目当ての商品を検索したくてキーワードを打つ。そこで希望するものがない場合、キーワードを変えて再検索する必要があるがそれは面倒臭い。スマホで文字を入力するのが手間に感じるのは、それが能動的な行為だから。ただ流れるものを見るような受動的なアクションならハードルは限りなく低い。そこで検索ワードから連想される商品を並べてみたり、別の検索ワードを提案してみたり、閲覧した商品に関連しそうなものを並べてみたりする。画面をスクロールして気になるものがあればタップする、だけであればほとんど受動的に操作できる。
検索にヒットする商品がひとつもないとき、検索結果の一番下までスクロールしたとき、何か打てる手がある。これらは今やっている作業がいったん終わり、次にユーザーが能動的に何かを起こす必要があるタイミング。つまり行き止まりの状態といえる。放っておくと離脱してしまう可能性が高いので、似た商品を出したりして間を繋ぐ。ソーシャルゲームなどが上手いが、ひと区切りできるタイミングで次のアクションを始めさせると長く使ってもらえる。滞在時間が伸びるのは事業者側としては願ってもないことだが、ユーザー的には意図せず長い時間をそこで使ってしまう場合もあり人類の利益になっているかは怪しい。ユーザーとして使う場合はこういう罠は避けるよう意識しておきたい。
リモートワークに関するNのこと
世の中のWeb企業は出社回帰がトレンドだが、ここでは個人から見たリモートワークについて。
自分の仕事はしやすいがチームのコラボレーションはかなり意識しないと生まれにくい。オフィスではいろんな役割の人が一緒に仕事していて、その交差によりアイデアが生まれる場合が稀にある。昔何かの本で読んだところではそういう"交差点"として最適なのは喫煙室や自販機近くで、たまたま顔を合わせ、喋っても喋らなくても良いという距離感が重要な要素になるらしい。一同会して交流しましょう!というのでは少し違う。リモートワークにおける会議は基本的に目的ベースになってしまうので、オフィス体験そのものの再現は難しい。
出社がないのは楽だが交流がないのは寂しい。自分は人と話すことでアイデアが生まれるタイプで、他の部署の人とたまにランチに行きたいが難しい。リモートならいつでも話せるが良い会話をするためにはその前段に信頼関係が必要。心理学用語にラポールという言葉がある。話し手と聴き手の間の信頼関係のことで、これがないとコミュニケーションは円滑に進まない。例えばお医者さんに病状を話したとき、目を見て頷きながら聞いてくれるのとモニタを見ながら耳だけで聞いているのとではラポールの形成具合が違う。その後同じ診断結果を告げられたとしても前者の医者からの方が受け入れやすい。リモートでもラポールは築けると思うが時間がかかる。これはその人を信頼できるかを判断するための情報が少ないため。細かい表情や身振り、喋る間合いなどの要素が画面越しでは伝わりにくい。この人にすべて話しても大丈夫だろうか?と勘繰りながらの会話には摩擦がかかる。
移動することで頭や心が動きやすくなるという説がある。在宅勤務は快適だが景色が流れない。電車に乗ったり歩いたりしてる時に見る建物、広告、人の服装、季節感から刺激を受けて頭が回る。体を動かすことは健康への貢献、頭のスイッチオン、公私の切り替えになる。気を抜くと仕事後もなんとなくパソコンを見ていてしまう。人は場所と行動を紐づける性質があるので、仕事と生活の物理的な空間を分けておくと切り替えやすい。
人と話してると共感を超えて同調してしまうときがある。画面越しだと自動的に一定の距離を置けるのは自分にはポジティブな要素。その場の勢いというのが良くも悪くも生まれづらいので、一度考えてから自分に落とし込めむだけの余白がある。相手がどう思うか気にしすぎると意思決定が捻れてしまうので、このあたり仕事にはプラスに働いている気がする。
良い日を増やす
「ゾーンに入る EQが導く最高パフォーマンス」を読んだ。集中したバッターは稀にボールが止まって見える。極限まで集中したその状態をゾーンと呼ぶが、ゾーンに入るの非常にレアで目指しにくい。本書ではその一歩手前、「オプティマルゾーン」を目指すことを推奨する。オプティマルゾーンとは「良い日を過ごせたな」と満足できている状態のこと。オプティマルゾーンはゾーンよりも具体的で目指しやすい。
どうすれば良い日を過ごせるか?一日の終わりに自分は全力を尽くしたと思えるように過ごす。大勝利でなくていい。重要な一歩でなくていい。ただ「自分にとって大事なこと」が捗ればそれで十分良い日だといえる。良い日を過ごせると精神的にも充実し、さらに良い仕事ができる。ゾーンに入って一発ホームランよりも、この良い日の連続を目指していく。
オプティマルゾーンに入りやすい条件もいくつかある。ひとつは人間関係が良好なこと。同僚に親切にしていると良い日になりやすい。次に、取り組む課題の内容。課題に全力を出せるかどうかは、自分の能力とのバランスよりも、課題への取り組み方を自分で決められるかどうかの自由度に関係する。最後に集中しやすい環境であること。深く没頭していると自然とゾーンに近い状態になる。注意散漫になる要素を減らし、マルチタスクを避けて目の前に没頭する。集中した状態では仕事のパフォーマンスだけでなく自分への自信が高まり、他人からどう見られるかの自意識から解放される。
オプティマルゾーンはEQと関連が深い。EQは心の知能指数で、チームや組織で働く上ではIQよりも重視される。その正体は自己理解と他者への共感で、自分の状態を適切に管理し周りを慮るマインドセット。毎朝早起きして長いランニングをしたり、感情に支配されて失敗した時を振り返って「次に同じことがあったらどうするか?」を考えたりする。心地よいと思える日の条件を知り、「今日は良い一日だったな」と思える日を増やすことを目指したい。