自分なりの考えが固まるとその道から外れにくくなる

2025/08/11

若かった頃は自分なりの「軸」を持つことに憧れた。社会人になって15年ほど経ち、何が美しく何がピンと来ないかを理解できるようになってきた。それと同時に世界の狭まりも感じる。自分なりの考えやセンスを持つことはどういうことなのか?

考えるキッカケとなったのは個人開発者のコミュニティみたいなもので、そこに所属して相互にXをフォローしてフォロワーを増やそう、という呼びかけだった。個人開発は作るだけじゃなくて宣伝も自分でしないといけない。個人がお金をかけずに広める方法はそんなにパターンはなく、Xのフォロワーがいることは確かに有利に働く。なのでこういう取り組みが盛り上がることに理解はできるが、自分がそこに飛び込むことはできない。それは自分らしい方法じゃないとか自分のセンスに合わないとかそういう理由で、こだわりが出来たせいで選択肢が狭まっている気がしている。

突き詰めると主義・スタイルの違いかもしれない。例えば自分がカッコいいと思える音楽を追求して売れるアーティストもいれば、TikTokでバズりやすい曲を作って売れるアーティストもいる。SNSで誰でも発信できるようになった現代では、まず目立って人気になってから実力をつける場合もよくある。ゴールへの道は一本道じゃなくていろんなルートがある。どの道にも共通するのはコツコツ続ける大事さで、継続するという意味で自分が納得できる道を選ぶのは大事な要素になる。

「ダグラス・アダムスの法則」というものがある。

  • 人は、自分が生まれた時に既に存在したテクノロジーを、自然な世界の一部と感じる
  • 15歳から35歳の間に発明されたテクノロジーは、新しくエキサイティングなものと感じられる
  • 35歳以降になって発明されたテクノロジーは、自然に反するものと感じられる

例えば自分は位置情報を常に友人と共有することには抵抗があるし、BeRealはやっていないし、カップルYouTuberは観ていない。こういう感覚のズレはすでに起きていて、ここから広がることはあれど狭まることはない気がする。コミュニティで相互フォローを増やすことはクールじゃないと今は思っているが、若い世代では全然感覚は違うのかもしれない。自分のこだわりが少しずつズレているんじゃないか、という怖さはいつでも付きまとう。