資本主義と多様性の狭間で
人はそもそも多様で、特徴や性質は全員異なる。自分らしい部分を最大限伸ばして生き生きとできるのが豊かな社会。しかし資本主義が作ってきた構造や雰囲気はこれと反する部分も多い。
資本主義は競争がベースになっており、他社より、他人よりも優れた成果を出す必要がある。競争相手よりも一歩でも先に進められれば有利に進み、評価される。その結果効率性や能率性を高めることが重要視され、そのためにスキルを身につけたりハックしたりする方法が生み出されてきた。
働くスタッフが競争のための道具となるとき、一人一人の個性はどうでもよくなる。例えばパフォーマンスの低い社員がいたとして、その人がなぜ成果をあげられないんだろう?と対話するのではなく、「どこの会社にも活躍できない社員はいるから気にしないでOK、それよりエース人材の待遇をあげてもっと働いてもらおう」と考えてしまう。実際は他の会社の状況は関係なく、自分の会社の社員が働きやすい環境を作れるかどうかの問題。しかし競争が前提なのでそういう(事業的に)些細な問題は軽視し、もっと売上や事業成長に効く要素だけがフォーカスされてしまう。
会社の社長自身も悪意はなく、むしろ純粋に自分の会社を成長させるという役割に準じている。それはどこから来るかというと競争社会、自己責任論、自分は頑張ってそれを乗り越えたというバイアスなどに由来する。弱者に寄り添いサポートができるチームが素晴らしいと思うが、実際にそういうチームが市場で勝つとは限らないのが難しいところ。
社会人だからできて当然という見方もあるが、それも人によって程度がある。大人になっても遅刻を繰り返してしまう人はいる。大人でも子供でも変わらず対等に対話できる状態でありたい。
かくいう自分も高校・大学とストレートで進み、それなりに知名度のある会社に新卒で入って働いていた。過ごしてきた時間を肯定したいという思いもあり、つい自分のやってきたことや選択をポジティブなものとして語ってしまう。実際は経験することは人それぞれだし、その経験から何を学び取るかも違う。その人に寄り添うには対話しかなく、「この人には話してもいいな」と信頼関係を築くことからすべては始まる。