「断片的なものの社会学」を読んだ
「断片的なものの社会学」を読んだ。著者は社会学者の方でいろんな人の話を聞いて調査している。この本は「断片的」で、聞いた話をまとめて意味を見出したりはせず、ただいろんな人の話が綴られている。街を歩いてすれ違う人たちがどんな人生を送っているのか?想像力を働かすきっかけになる一冊。
紹介されている話はどれも自分の世界を広げてくれるものだが、やはり自分と重なるものが多い章には心が動かされる。例えば現代では何を言っても誰かを傷つけてしまう可能性がある話。「結婚して子供も産まれ、幸せに暮らしています」という語りには結婚や子供を持たない人は幸せになれないという含みがあり、それが誰かを傷つけたり焦らせたりしてしまう。これに対して著者はこう書いている。
ある人が良いと思っていることが、また別のある人びとにとっては暴力として働いてしまうのはなぜかというと、それが語られるとき、徹底的に個人的な、「<私は>これが良いと思う」という語り方ではなく、「それは良いものだ。なぜなら、それは<一般的に>良いとされているからだ」という語り方になっているからだ。
(中略)
完全に個人的な、私だけの「良いもの」は、誰を傷つけることもない。そこにはもとから私以外の存在が一切含まれていないので、誰を排除することもない。
例えば「私はこの色の石が好きだ」という発言は誰も傷つけない。それは個人の感想を言っているだけだから。「この色の石を持ってる人は幸せだ」こうすると石を持つ人・持たない人で区別を生み出してしまう。誰かを傷つけたくはないけど自分の感情は語りたい。「私は」という主語から語りを始めることは一つの対処策になる。
また、現代では友達を作るのがとても難しくなっていると著者はいう。それは「人を尊重すること」と「人と距離を置く」が一緒になっているから。例えば友人が怪しげな宗教に入ったとき、それについて指摘するのはとても勇気がいる。多くの場合「本人が納得しているならよいか」と着地させる。それは相手のことを思ってというより、関係性を壊したくない自分の恐れから来ているものかもしれない。
干渉するのも微妙だし本人の意思だからと手放すのも違和感がある。そんな時、「私たちは生まれつきとても孤独で不完全だ」という前提から出発する。ひとりで生きるのは孤独すぎるからこそ、もう少し相手と向かい合って話しても良い。自分の思う意見を伝えても良い。そしてそれが相手に受け止められなくても良い。自分はこう思うよ、という意見を述べることは祈りに近いところがある。それが届くかどうかは自分で決めることはできない。