インプットとアウトプットの狭間は意外と大きい
AIエージェントであるClaude Codeの使い方について書いたnoteが思ったより読まれて驚いている。新しい技術ではあるが、他にもたくさんの良い記事がすでにあるし、Claude Codeを日常使いしてる人も一定数いる。自分なりの切り口はあったがそれにしても読まれている。そこで思ったのがインプットとアウトプットの狭間が意外と大きいのかもしれない、ということ。
インプットして自分の仕事に活かすのをやってる人はたくさんいる。それは自分の仕事にダイレクトに効くし、SNSやAIの発達で良質な情報にアクセスもしやすくなっている。一方でアウトプットは絶対に必要なことではない。ブログやプレゼン発表をする義務はないし、知識を体系的にまとめたり分かりやすいように画像を用意したりするのは骨が折れる作業だ。書いた内容が間違えていて批判されるリスクもある。発信にはある程度のハードルがあり、基本的に面倒くさいことなので越えられる人が少ないのかもしれない。
プロダクトマネージャーという役割で働いていた2ヵ月前まで、日々の仕事で学んだことを「PdM日記」というタイトルで定期的にnoteに書いていた。これは自分的には熱を込めて書いていたものだったが、そのどれよりもClaude Codeの記事がすでに読まれている。母数でいうと「プロダクトマネージャー」よりも「プロダクト開発」の方が何倍も大きい。市場の大きなところほどメインストリームになり得る。当たり前だが、自分の熱量とそれは比例しないことは覚えておきたい(熱を込めて書くのはそれ自体が楽しいのでボリュームが小さくても問題ないが)。
2台目のMagic Mouseを買った
数年前からAppleのMagic Mouseを愛用している。それまではトラックパッド派だったがマウスの方が手首への負担が軽い。以前一日中パソコンしていて手首が腱鞘炎っぽくなった時があり、その頃にマウスを使い始めて完全に定着した。クリックや距離のある移動などはマウスの方が操作も早く、作業が速くなった実感もある。そのMagic Mouseにブラックのカラーが出ていることを知り、2台目を購入した。
最近は仕事も個人開発ももっぱら自分の部屋のデスクでやってるが、ここには会社と私用の2つのMacBook Proがある。どちらでもマウスを使ってるが、Magic Mouseは2つのMacとペアリングできず、PCを入れ替えるたびに毎回マウスをLightningケーブルで接続して認識させないといけなかった。
これは地味にストレスで、毎回やるのは面倒だし、やらないと繋がってる気持ちになって動かして画面上は無反応、ということになり虚しい。前々から2台目購入もアリかなと思いつつ、そこまでストレス量も大きくないのでそのままになっていた。さて、購入してみて数日。すでに感触が良い。高いモニタより広いデスクより、こういう毎日の地味なストレスが解放されることに喜びを感じる。ケアすることが一つ減る感じ。全自動洗濯機を買うと「洗う・干す・しまう」の3ステップが「洗う」だけの1ステップに削減できてハッピーになったがそんな感じ。お金は日常の小さな不満を取り除くために使いたい。
最後にしゃべるとそれっぽくなる
社会人をしていると一人ずつ意見を言ったり感想を言ったりしていく場面がある。例えばイベント運営の振り返りで良かった点と悪かった点を挙げるとか。こういうシーンでオススメなのが「最後に喋ること」。最初は緊張するし中間はあまり喋ることがない。最後の番を取り、「言いたいことは大体みなさんが言ってくれましたが、一点だけ〜〜」みたいな形でちょっと喋ると総括感が出る。本当に話したいことがあれば順番はなんでも良いが、それっぽく回すことが重要な場面では何気に使える。まったく本質ではないけど。
宇宙兄弟に「ブライアン・J」という宇宙飛行士がいる。彼は周りからとても尊敬されていて、仕事や人生のアドバイスをユーモアを交えていつも喋る。アメリカンジョークの類なのだが、こういう堅くなりすぎないコミュニケーションには憧れがあり、何かひとつアドバイスをとどこかで振られたらこの最後に喋るのを言いたいと準備している。仕事だけでは堅すぎる、趣味だけでは浮世離れしすぎる。昔読んだ本に「人生の達人は仕事と趣味を分けない」とあったが、生き方そのものを楽しむという共通点があるように思える。
日本を失敗できない国にしない
先日新聞を読んでいてタイトルの言葉を見つけた。「日本を失敗できない国にしない」。インタビューされていたのは宇宙スタートアップ企業の方で、成功し続けることは難しい産業に身を置いていることがこのミッションが形だけではないことを物語っている。
なんとなく失敗は恥ずかしいという風潮がある。小学校の授業でも、日本人の子供は恥ずかしてく手を挙げられない。アメリカの小学生はみんな手を挙げて当てられてから「分かりません」というらしい。集団の中で劣っていると思われたくない比較の心は日本人に強いのかもしれない。
大人になるにつれ、あまり物事の成功・失敗に区別がないような気がしてきた。一時は成功者と持て囃された人でも後に苦しい人生を歩んだりする。周りからみると苦労してそうと思う人が自分の人生を心から楽しんでいたりする。成功や失敗の評価は周りから与えるもので、本人の自覚とはほんとは関係ないのかもしれない。自分のミスを笑い飛ばせる人にいつも憧れている。
芸能人のスキャンダルでも、人気があって潔白なイメージがある人ほど報道で引き摺り下ろされる。みんな人気者が落ちていくのを見たい。その落差が大きいほどエンターテイメントになる。そうであれば自分は人気者にはなりたくない。ずっと中くらいの位置で、上げられず下げられず自分のペースで活動していきたい。SNSなどで有名になってる人を見ると「自分にもできそう」と思う時があるが、それは自分の道ではない。評判の上下ではなく良いものを作ることに自分の時間を捧げたい。
"伝わる"サービスづくり
シンプルな機能でも使いづらいサービスがある一方、複雑な機能を備えつつユーザーのやることが明瞭なサービスもある。この違いはチームに良いデザイナーがいるかどうか。良いデザイナーはユーザーの視線の動きまで意識し、どの要素をどこに置けば良いかを熟考して答えを出す。機能一覧表に並べるのなら適当に機能追加すれば良い。しかしこのデザイナーのこだわりが長期的な資産となり、競合との差別化要素となっていく。
良いデザインはどう作るのか?それは何度も何度も「初心者目線」でそのサービスを触ること。初めてそのサイトを訪問したユーザーはどう感じるか?自分の仕事を楽にするためにそのサービスを使っていて、どこで躓くのか?よくある壁としては「ボタンが多すぎてどれを押すべきかわからない」「要素が多すぎて全体像の把握に時間がかかる」「テキストの内容が冗長・不正確で使っていて疲れる」など。こういった課題はユーザーからフィードバックされれば改善できるが、大抵のユーザーは見切りをつけたら何も連絡なく二度と現れない。大企業であれば候補者を集めてユーザーインタビューを実施するところだが、個人開発者やスタートアップにはそんな潤沢な予算はない。やはり大事なのは自分でユーザーになりきること。エンジニアになったり主婦になったり、彼らの気持ちで使えば自ずと改善点は見えてくる。
サービスの領域によっては本当に複雑で初見には絶対理解できない仕様もある。その業界独自の仕組みであったり、高度な権限管理であったり。こういったものをシンプルに出来るとカッコ良いが、無理に処理を隠蔽してシンプルに見せかけても大抵失敗する。元々実現したいことが複雑な場合はユーザーインタフェースも複雑になる。例えばメールアプリでは「宛先」「差出人」「件名」「本文」は絶対に必要だ。これを本文だけで送信できるようにはできない。ユーザーの入力を補助することはできる。宛先を過去の履歴から選べるようにしたり、本文の1行目を自動的に件名にするなど。こういう細やかな工夫は作業を効率化してくれるので歓迎だが、基本的にはユースケースを限定する代わりに便利さを提供している。上記の例では件名は別で入力したいユーザーが多数いて、その人たちにとっては無用な機能になる。
近年、デザインやユーザーに"伝わる"UXライティングなどの分野の注目が高まっている気がする。作れば売れた時代が終わり、今はユーザーに選ばれないと生き残れない時代。初見ユーザーにサービスの魅力をしっかり伝えるために、初心に帰って何度も触るのはとてもオススメの方法です。