リベラルアーツとは何か
リベラルアーツとは何か?博識や物知りとは違う、実践に基づいた教養。例えばスーパーのレジに並んでいる時に前に割り込まれたとする。その時「なんだコイツ」という怒りで終わらせず、この人がどういう状況にいるのかに想いを馳せる。子供が家で泣いていて急がないといけないのかもしれない。大事な仕事がこの後あり急いで戻らないといけないのかもしれない。実際どうかはわからないが、こうして一呼吸置くことで余白ができ、多面的に考えられる。リベラルアーツはそういう類のものだと理解している。
リベラルアーツは実践の中で磨かれる。色々な分野の学問を学び、それを実践する。専門職的なスキルが高い人はすごいとは思うが憧れの対象ではない。憧れるのは自分の基準を持っている人。「自分はこうしたい。だからこう行動している」こうやって自身の価値観をシンプルに言語化できる人には憧れる。
一生手元に起き続けたい本に「他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ」がある。シンパシーとエンパシー、日本語に訳すとどちらも「共感」だが意味するところは異なる。シンパシーは自分と同じ属性に対して感じるもの。一方でエンパシーは相手の立場になって考えることだ(=他者の靴を履く)。明らかに一方に非があると思われる状態でも一考の余地を残す。相手がその言動に至ったのはどういう背景があったか?想いを巡らせた結果それに同意できなくても構わない。相手の立場で考えることは上手くなりたい・継続していきたいことのひとつ。
最後に、楠健一さんの著書「経営読書記録 裏」に書かれていたお金とリベラルアーツについての一節を紹介。
なぜお金が好きなのか。オプションが増えるからだと思います。僕は今日、地下鉄でここまで来ましたけれど、もう少しお金があればタクシーで、すごくお金持ちならヘリコプターで、というふうにオプションが増えていく。これがお金の便利なところです。
ただし、お金があれば自由が手に入るかというと、そんなことはまったくありません。増えたオプションのどれを選ぶかは、その人の価値基準にかかっている。自分の中に価値基準がなくてお金というオプションだけたくさん持っているような人がいます。そういう人は自分の外にある物差し、世間の基準で判断するしかないわけです。
この「価値基準がある」というのがリベラルアーツ、つまり教養のある人の定義だと著者は言っている。お金が増えると便利になるのは間違いないが、それイコール幸せというわけではない。自分の中で長年モヤっていたが、リベラルアーツと絡めて綺麗に言語化してもらった。最後にもう一節。
自分の人生を自分の思うままに生きる。これがいちばん大切なことだ。世の中は自分の都合で回っているわけではない。ほとんどのことが自分の思い通りにはならない。それでも、自己に内在化された価値観に基づいて考え、自律的に選択したことであれば、泰然として受け止められる。
自分で決めたことなら失敗しても受け止められるが、他人に決められたことは失敗したら他責にしてしまう。何をやるか?から自分で決められるのが自由。「幸せ」になるために、その状態を長く続けるために、自分にとって大切なものは書き留めておきたい。
しずかなデザイン
仕事柄いろんなWebサービスに触れるが、最近のサービスはスッキリしたデザインのものが多い。トーンが統一されていて情報が整理されている。色を使いすぎず本当に重要なところだけ強調されている。大事な箇所が一目でわかるのは優れたデザインの条件の一つだ。
逆に、ひと昔前はデザインが優れていて感動していたサービスでも今見ると古く感じるときがある。デザインにもトレンドがあり、リリースした状態のまま留まっていると古くなってしまう。真面目な頭で考えると、見た目のリニューアルよりも新しい機能を追加した方がサービスや事業が成長するという計算になりやすい。デザインの良し悪しは数字で計りづらく効果も予測しづらいから。しかし扱っている課題や他社の状況にもよるが、感覚的には良いデザインには強い競争力があると思う。
最近は静かな空間を作りたいと思っている。罫線だらけのサイトや文字ばかりのサイト、コンテンツがぎゅうぎゅう詰めになってるサイトは例え中身が良くても居心地が悪い。テキストや画像がロードされるまで四角形や円を代わりに配置しておくスケルトンローディングという手法がある。ロード中は波打つようなアニメーションで図形の色が変化する。頑張って読み込んでいますよ感を伝えるのには一役買っていると思うが、画面いっぱいにスケルトンローディングがあると騒がしく感じる。もっと落ち着いたローディングで良いし、さらにいうと読み込み速度が高速な方が良い。表示の高速化や機能の使い勝手など、デザインは装飾だけでなく本質に絡んでいる。
Web"サービス"と名がついているが、一流ホテルのサービスと比べるとまだ遠い。余白のある落ち着いた空間で信頼感がある。スタッフは親切に教えてくれるが押し付けすぎない。困ったらなんでも相談できて、聞けば詳しく教えてくれる。小さな感動があり、そこに滞在したことを誰かに伝えたくなる。また訪れたくなる。こういった体験をWebサービスでも実現したい。落ち着いた空間、知りたいタイミングで教えてくれる情報設計、色使いや言葉遣いから信頼感を感じられる。ちょっとした工夫に感動し、何度も来たくなる居心地の良い場所。サービスづくりのヒントは普段の観察から得られる。
supernova
「熱が出たりすると 気づくんだ 僕には体があるって事 鼻が詰まったりすると 解るんだ 今まで呼吸をしていた事」
BUMP OF CHICKENのsupernovaという曲の歌詞だが、風邪を引くといつも思い出す。普段当たり前に思っている事でも失うとその大事さに気づく。体のことは怪我した人が一番よく知ってるし、健康の大事さは体調を崩した人が一番知っている。
先週怪我をした。仕事終わりにスーパーに買い物に行く途中、暗い夜道で側溝に落ちて腕を擦りむいた。その瞬間はアドレナリンが出て痛みがわからなかったが明るい場所で見ると痛々しい傷になっており、ガーゼと包帯を巻いて一週間くらい過ごしている。
幸い指はいつも通り動かせるので仕事は支障なくできる。とはいえたまに痛むし包帯は目に入るしで、なんとなくやる気が出ず個人開発はお休み。ソファでごろごろしながら本を読むなどして過ごしている。怪我をしたのが右手で、ノートにペンで色々書いたりできないのも辛い。日記を書いたり考えごとを整理するときは紙に書くことも多いので、考える力が数段落ちているような気がしていた。
年を経るにつれ健康の大事さは増している。引っ越してからは水泳も行けてないが年始から再開する予定である。とりあえず右手が完治するまではゆっくり休もうとしており、今楽しみなのはM-1。応援していた真空ジェシカ、エバース、バッテリィズの3組がすべて決勝に上がってうれしい。ダークホースといわれるジョックロックにも期待。M-1は予選のネタがYouTubeにアップされるが、決勝に残ってない中で面白いと思ったのはナユタというコンビ。まだ大学2年生らしいが雰囲気もネタもかなり自分に刺さっている。お笑い好きの方、12月22日は一緒に楽しみましょう。
「通知表をやめた。」を読んだ
「通知表をやめた。: 茅ヶ崎市立香川小学校の1000日」を読んだ。神奈川にある小学校で通知表の意義を考え、やめるに至った経緯と現状の変化をまとめた本。この小学校の近くの友人宅に最近遊びに行ったので縁を感じて購入。教育や評価は関心のある分野なのでとても面白かった。
まず通知表をやめるといっても評価をやめるわけではない。子供の学習に対する評価そのものはしっかり行う。通知表は学期末に学生や親に向けて発行するもので、その発行をやめたという話。小学生の頃は生まれた月などにより成長に個人差がある。普段からそれは気にしなくていいんだよと声をかけていても、通知表でスコアをつけてしまうと矛盾したメッセージを届けてしまう。そういったモヤモヤから出発し、本当に必要なものは何かを考えた結果通知表の廃止が決断される。学校教育というと堅くて動きが遅いイメージがあったが、この本に記録された議論を見ると普段の自分たちの仕事と何ら変わりないように思える(むしろ進んでいる)。本質を見つめて改善に取り組む仕事を尊敬する。
面白かったのはテストで点数をつけるのをやめたという話で、内部的には点数はつけるが学生に返す回答用紙には記載しない。点数があると子供たちはそこに注目してしまい、他の子と比べる材料にしてしまう。点数を書かないことでどこを正解してどこを間違えたのか、純粋にその正誤だけにフォーカスが当たる。思えば「この問題は5点」「この問題は10点」といった配点に何の根拠もない。それは100点満点にするための工夫であり、できなかった問題に向き合うのとは別のベクトルだ。
運動会では対抗で順位を競うのではなく、練習の時の自分たちのタイムを超えられるかどうかに挑戦する。6位でゴールしてもタイムが発表されるまでドキドキして待つ。得手不得手を比べるのではなく昨日の自分よりうまくできたかを測る。オリンピック選手のような競技スポーツの世界に身を投じる人はごく一部で、大半は健康や娯楽を目的に運動と向き合う。そう考えると「昨日の自分より」の発想は本質に近い感じがする。
前例のないトライに反対意見も多く寄せられたそうで、その一つが「中学や高校にあがると結局成績で比べられる。早い段階からそれに慣れておくべきではないか?」というもの。確かに学生の受験でも社会人の業績でも比較を避けて生きていくことはできない。しかし個人的には小学校の間くらいは伸び伸びと過ごし、興味・関心のあるものになんでも挑戦する雰囲気で育つ方がポジティブな影響がある気がする。私は3月生まれで成長が遅く、小学校のときは周りと比べて運動や勉強ができずに自分を「できない子」だと思っていた。でも大人になってみると運動は特段苦手ではないし、新しいことを学ぶのはかなり好きである。競争社会への順応はどうせ長い間しないといけないので、小学生の間くらいはいろいろ試して自分の「好き」を見つける時間になれば良いと思う。
ツッコミ文化が常識から外れにくくする
何かを始めるよりも何かやっている人に注意する方が簡単にできる。SNSを見ても誰かが火種を投稿してそれに全員で油を注ぐ。大炎上時代と1億総ツッコミ時代の関連性は高い。
ツッコミとは人の常識外れの行動を指摘して笑いを取ること。テレビなどでお笑い文化が浸透した結果、今では芸人だけでなく一般人もそこらでツッコむ。それは会議室だったり飲み会だったりで披露され笑いの種になるが、その用法には注意したい。
例えば人と違う行動をしていたとき、それは個性である。それにツッコんで笑いを取るのはみんなの前で「常識」を提示することで、順応性の高い人はそれに従って自分の行動を制限してしまう。例えば1日に10杯ラーメン食べてる人がいても別に良い(健康に悪い可能性はある)。能力がある人は「出る杭が打たれる」が、多様な考えをツッコミが押さえ込んでしまう場合がある。
オードリーの若林がM-1でぺこぱを見たとき、感動して涙が止まらなかったとラジオで話していた。若林はツッコミで、当時出ていた番組は「オードリーさん、ぜひ会ってほしい人がいるんです」など変わった人を紹介されて話を聞くものが多かったという。それについて「おかしいでしょ!」などとツッコむが、本当はいろんな人がいていいと思っている。でも番組の構成上それを言う必要があって苦しんでいたところ、すべてを肯定するぺこぱの漫才を見て「これだ」と思ったそう。場を盛り上げたい、楽しく時間を過ごしたいという思いは良いものだと思うが、否定以外でもそれは作れることは覚えておきたい。
常識と違うのは悪いことではない。常識外れの言動をみかけたとき、むしろその常識がなぜ今まで存在していたかを考える機会としたい。それが人に迷惑をかける行為でなければ否定して簡単に笑いにするのではなく、そのノリと合わせて一緒に踊る方を選びたい。