「家族は他人、じゃあどうする?」を読んだ
「家族は他人、じゃあどうする?」を読んだ。最近興味をもってるケアの話が主で、竹端さんの著書は3冊目でしたがその中でも一番良かったです。
子供の増えた家族が戸惑う原因のひとつが、それまで生きてきた仕事の世界とケアの世界の違いによるもの。例えば朝保育園に向かう前に子供の機嫌を損ねてしまった際、仕事的な発想では「なんで予定通り動いてくれないんだ」「このままじゃ遅刻してしまう」と感じる。一方ケアでは「機嫌を損ねたのはなぜか?」「それを前向きにするために何ができるか?」と考える。前者は客観的な評価を、後者は本人を主体に物事を捉える違いがある。
小さい子供は自分の感情をすべて伝えることができない。しかしそれでも本人主体で話を進めることはできる。ケアをする側(ここでは親)が問いかけたり観察したりすることで、子が発するメッセージを逃さず捉えられる。それをせずに大声を出して従わせようとするのは、そうして圧でコントロールできたら自分が楽だから。そこにケアする相手への尊重はない。
面白いのが「おしりぺんぺんは許されるか?」という問い。自分としては絶対やらないだろうが、「しつけのために必要です」という人にはどういう論理で当たればいいか?本書の中では次のように紹介されていた。
子どもへの暴力を「子どものしつけのため」と説明する親であっても、自分の子供以外に暴力をふるうことはほとんどない。
(中略)
「自分の子どもであるから体罰を行使する」のなら、それは子どもの親である立場を乱用している、すなわち「親権の乱用」であると言えよう。
しつけのためと言うなら他の子供にもやるよね?それをやらないのは「家庭内のことだから」を盾に力で従わせようとしてるんじゃないの?という。親権の乱用というのが良い言葉で、昔何かのテレビで見たワンシーンを思い出した。その番組では多くの親が子供に「そこの醤油取って、はい3、2、1...」みたいなコミュニケーションをしていることを問題視されていた。こんな話し方相手が大人だったら絶対しない。つまり子供を「子供扱い」してしまうやり取りになる。親権の乱用とは直接のニュアンスは違うかもしれないが、相手を主体で考えることを放棄するという点で共通しているように感じた。
また、問題を相手に押し付けてしまう話も面白い。例えば子供が自分(父)の話を聞いてくれないとき、「そんな人の話を聞けないんじゃ社会に出たら困るぞ」というように、子供を心配しているような文脈で捉えてしまう。しかし父親の実際の心配事は「子供が自分と話してくれない」ことで、これは父親側の問題なのに子供に問題があるようにすり替えてしまっている。
このくだりは耳が痛かった。というのも会社で似たようなことをした経験がある。チャットでメッセージのやり取りをしていて、相手の発する内容がよくわからないとき、自分は「相手のテキストコミュニケーション能力を向上させなければ」という風に考えてしまった。しかし実際に困ってるのは自分で、問題を抱えているのは自分の方。正しくは「自分が理解するまでに時間がかかって困る。だから次からはこういう形式で伝えてほしい」と相手にお願いすることだった。そのお願いを正面からするのが面倒で、スキルの問題だと捉えて変な方向に話を進めてしまっていたことに今更ながら気づいた。
仕事術やマネジメントの本はよくあるが、それに染まりすぎると逆にケアの世界から離れたマインドが形成されていってしまう。資本主義・効率主義の呪いを解くべく、本書のようなケアの本を定期的に読んでいきたい。