「傷つきやすさと傷つけやすさ」を読んだ
「傷つきやすさと傷つけやすさ ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと」を読んだ。最近はケアの本をよく読んでいるが、その中でも本書は3本の指に入るくらい面白かった。本屋でたまたま手に取った本なので、出会いに感謝。
まずは冒頭のくだり、「我思う、ゆえに我あり」でお馴染みのデカルトについて。彼は「自己」についての考えを書いていたが、そこには彼の身の回りを世話していた人物への言及がなさすぎることを指摘する。さらにデカルトは貴族の出で受けた教育も良い。特権を享受しつつもそれを自覚せず、あたかも普遍的なもののように表現することはケアを無視しすぎている。この指摘がまず面白い。
そしてケアを無視していることは現代にも通ずる。例えば会社での競争主義は男性が中心となっており、それは家にいる女性にケアを押し付けて成り立ってきたものといえる。自分はいまそれなりに仕事もできて楽しく過ごせているが、それは自分の才能や努力のおかげではなく、そもそも家の中が落ち着いて勉強できる環境で、困ったら塾に通わせてくれる親の考えや投資があり、その結果大学まで何不自由なく進めたことが要因として大きい。しかし気を抜くとそれを忘れてしまう。これはケアにスポットライトが当たりにくい状況を意味する。
自分の力で、という考えは自分にも牙を剥く。例えば自分が動けなくなったり、家族の介護をする必要が出たとき、「人に迷惑をかけないようにしないと」「家族のことは家族で」という考えが出てくる。これはケアの役割を家庭に押し込めていたのが自分に内面化されており、自己責任論として自分にのしかかる。
本当は人間は弱いので、困ったら周りにサポートを求めればいい。「困ってます」と言って助けを乞えば誰かが手を差し伸べてくれる。でもそれが自分の論理のせいでできない。そういう空気を自分たちで作り上げてしまっている。
言ってしまえば、私たちは常に誰かを傷つけている。「結婚しました」という報告は「自分も結婚に向けて動かないといけないのかな」というプレッシャーを与えるし、「仕事がこんなに順調です」という発言は仕事が楽しくない人をさらに悩ますことになりかねない。自分も週末によくプログラミングして趣味のアプリを作っていたが、それを見た同僚から「土日に勉強してないなんてダメですよね」みたいに言われたことがある。実際はまったくダメではないが、何かのメッセージは常に誰かを傷つけうる。そしてその人たちの暮らしや考えが自分から見えてないことが多いので、この傷つけは知らないうちに起きている。
著者の方はこう述べる。
「もしかして私は誰かを差別しているのではないだろうか?傷つけているのではないか?」という畏れをもち続けることでしか、自らの傷つけを減らすことは難しい。
誰も傷つけないことは無理だ。であればせめて、自分の発言を反芻して考え、できるだけ聞く人のことを慮って発話することしか自分にはできないのかもしれない。
そして相手からの「傷つきました」というフィードバックには真摯に耳を傾け、それ以降の発言に反映させていく。こうして少しずつ見える視界を広げていく。